篠原 求婚1.5
けがないのに。同じ種族ではないから、DNAや染色体の関係で子供はできない。これも
説明ができないことだ。
時間をかけて、この板橋の家から離れよう。帰る日を、徐々に少なくしていくようにす
れば、それほど不審には思われない。そう考えて、寂しく思う。本当に息子のように大切
にして貰ったし、心から心配してくれる人たちとの縁を終わらせるのは、なんだか悲しか
った。
金曜日の夜の宴会は、とても盛り上がった。麟さんとジョンは、「飲み足りない。」
と、早々に帰った。細野は、少し酔っていたから、泊まるように勧めたが、「明日の朝に
勉強会があるから。」 と、帰ってしまった。
「それで、橘さんだけ残っているわけ? 」
妹は、居残った橘さんに、文句を言って、私室へ引き上げてしまった。
「もう少し飲みますか? 」
「ああ、ビールぐらい付き合わないか? 」
全員が風呂から上がって、奥の和室で、橘さんと僕で飲み直した。
「布団だけ敷きます。」
「いいよ、ここんちはセルフだったろ? まあ、いいから座れ。」
二年前まで、橘さんは、うちへ、よく泊まっていたので着替えも置いてある。久しぶり
に、飲み会なんてものをしたら楽しかった。
「あのな、月曜日、一緒に帰って夕飯を食ってやるから板橋家のほうへ戻れ。」
ビールを一缶飲み干して、橘さんが、いきなり、そんなことを言い出した。
「なぜ? 」
「板橋先生から、連絡があったんだ。たぶん、帰ってこないつもりだろうから、連れてき
て欲しいってさ。・・・・とりあえず、喧嘩のことは、また釘を刺したから心配しなくて
もいいって、おまえに言っといてくれって。」
「先生が? でも、そろそろ、居候するのも、どうかと思うんですけどね。」
少し飲んだだけで、ビールは、よく回った。ふわりと浮かぶような感覚で、ごろりと横
になった。三分の一も飲んでいないビールは、橘さんに没収されてしまった。
「まだ、ちょっと怖いな。おまえの場合、『大丈夫』がアテにならない。」
「そんなもんですか? 」
「そんなもんだ。・・・雪乃とのことで揉めたんだろ? 」
「・・揉めたというかなんというか・・・」
僕の残りを飲み干して、橘さんも大の字に倒れ込んだ。
「普通は、そういうもんなんだ。たぶん、板橋先生のご母堂って人は、普通の感覚でもの
を言ってる。」
「・・ああ・・・そうですね・・・」
「おまえ、雪乃が好きなんだろ? 」
「・・・好きとか嫌いのレベルじゃないです・・・居るのが当たり前だから・・・橘さん
だって、雪乃が好きじゃないですか。」
随分と付き合いも長くなった。橘さんが、どういう気持ちかぐらいはわかる。以前の八
つ当たりみたいな言動も、軽い悪戯も、原因は、そこにあった。
がばりと橘さんは起きあがって、横になった僕の肩を揺する。
「おっおまえ、それっっ。雪乃に言ってないよなっっ。」
慌てた様子がおかしくて、僕は笑い声を上げた。たぶん、チームの人間は、みんな、知
っている。
「言ってませんよ。・・・申し訳ないけど、雪乃との仲は取り持てません。」
「わかってるよ、そんなことはっっ。俺に盗られたくないなら、防御はすべきだぞ? 」
「あー気をつけます。」
格好をつけた感じで、橘さんは起きあがって布団を敷き始めた。慣れているから手早い
。それから、玄関の方へ歩いていってしまった。
沈黙した空間で、ふと考える。「好き」という感情。それが、どんなものなのか、よく
わからない。盗られる心配はない。僕が目を閉じるまで、離れてはいかないから。
それ以上には思考が纏まらなくて、ゆるゆると温かい闇へと堕ちていく。もし、このま
ま眠ったら、次に目を覚ますのは、どこか知らない星でのことになるだろう。 雪乃が、
「いらない。」 と、思うまで、僕は、そこで生きているのだろう。そう考えたら、この
星で、形に拘る必要はないとしか思えない。
飲んだ後は喉が渇くだろうと、台所へ水を取りに行った。すると、台所には、読書する
意中の女がいた。
「眠った? 」
「うーん、沈没寸前というところかな。」
「じゃあ、運んでくれないかしら? 水なら上にも用意しているから。」
自分だけ、とりあえず、水を飲んで、「わかった。」 と、了承した。
引き返したら、やっぱり、、若旦那は、そのまんま沈没していて、寝息を立てていた。
「ヤダ、ビールを飲ませたの? 信じられない。」
ついてきた雪乃は、眠っている若旦那の寝息を確認して、俺を睨んだ。
「別にいいだろ? 一口ぐらい。」
「アルコールなんて、ほとんど飲んでいないのに。」
「でも、このほうが熟睡できる。なんか、板橋家で揉めたらしいからさ。」
「ああ、また、口論になったのね。・・・・私からも、もう一度、お願いしたほうがいい
のかしら・・・」
「断るのか? 雪乃は。」
「もちろんよ。」
「なぜ? 」
「篠原君に、その気はないから。」
それが、ごく自然な態度だった。求められていないのなら、求めないというのが、彼女
の意見だ。気が長いというか、すでに夫婦のノリなのか、そこまでは理解できないが、こ
の関係で、互いが納得しているのが、不思議といえば不思議だ。
「まあ、本人同士が、それでいいならいいんだろうな。」
ぐっすりと熟睡した若旦那を抱きかかえて階段を上る。この家の家人たちは、皆、二階
に私室を持っている。
「ああ、こっちにお願い。」
「え? 」
雪乃が導いたのは、雪乃の私室だ。
「意味が違うわよ。いきなり、夜中に発作を起こさないか心配しているだけ。」
中へ案内され、広いベッドに、若旦那を下ろす。
「あのさ、雪乃。ここまで、してるんなら、もう、今更だろ? 書類ぐらい、どうという
ことでもないぞ。」
水差しから、注いだ水を、若旦那に飲ませて嘆息する。これは、もはや、夫婦の域だと
、橘は思った。同衾しているなんて、思ってもいなかった。
「だから、そういうものではないの。疚しいことは一切無いって神様に誓ってもいいわよ
。」
「無神論者だったろ? 」
「具合が悪いのに、何ができるっていうの? それこそ、橘さんの妄想じゃないの。」
「人をおかしな奴みたいに言うなよ。まあ、いいよ。別に俺には関係ない。・・・おやす
み。」
「ありがとう、おやすみなさい。」
パタンと背後で音がした。
・・・婚姻の縛りなんて、今更だな・・・・
もう一本、台所からビールを調達して、ぼんやりと深夜番組を眺めた。形式など無視し
て作られたモノを、今更、形式の枠に嵌めることに意味がないと思った。
人間というのは、至極簡単なことで死ぬ。宇宙空間に、生身で放り出せば、すぐさま凍
るぐらいに柔にできている代物だ。
いつもの週末に、彼は家に戻ってきていた。相変わらず、両親の家で暮らしていて、週
末だけ戻ってくる。すっかりと身体は、よくなったので、仕事も本格的に動き出した。
「愛ちゃんとデートなんだ。」
彼は、妹にせがまれて外出した。ずっと、ひとりにしていた妹に謝罪の気持ちが大きい