篠原 求婚1
宥めるように、諭すように、あるいは、親として強引に、兎に角、いろんな方法で、結
婚を勧めた。だが、当人は、困ったように微笑むばかりで、「ヤダ」 と、首を横にしか
振らない。
そろそろ、元々住んでいた家へ戻ってもいいだろう、という許可は出た。だが、両親は
反対している。
「ああ、この間、俺が釘を刺したからだろう。あんまりしつこいと、義行が、ここに戻ら
ないぞ、ってさ。なんか、もう、越権行為も甚だしいからな。」
僕の主治医でもある兄は、そう言って笑った。再三に、雪乃との婚姻を勧められて、断
るのにも疲れていたところだった。
「・・・うん・・・わかってはいるんだけど・・・どうしても、ダメなんだ。自分でも、
よくわからないんだけど、どうしても・・・・」
「別に焦ることでもないさ。もう少し、おまえ自身が落ち着いてから考えればいい。責任
とか、男の沽券だとか、いろいろと言われたんだろうけどな。それは、健常者には通用す
るが、今のところのおまえには、無理なことだ。」
だから、気に病むなよ、と、頭をぐりぐりと撫でられた。傷口に薄い膜が貼っているよ
うな状態だから、なるべくのんびりとしていなさい、と、兄は言う。
「ただ、うちの親が言うことは正しいのだとは理解しておけ。それから、それが苦痛だと
思うなら、俺に言うように。もう少し大きな釘を刺してやる。」
撫でてくれる手は大きくて暖かい。これは主治医としてではなく、兄としての忠告だっ
た。
「苦痛でないんだ。わかってはいるから・・・・でも、どうしても、ダメだって、僕自身
が思ってるんだ。・・・・もし、何がダメなのか判明したら、お母さんたちが勧めるよう
にできると思う・・・」
「まだ、おまえも小林さんも若い。それに、もしかしたら、小林さんのほうが離れていく
ことがあるかもしれないしな。」
「それは、ないと思う。」
「え? 」
本当に、自分がよくわからない。だが、雪乃が他の誰とも、付き合うことはしないだろ
うと、思いこんでいるらしい。いや、なんだか、それは決定していているように、思えて
、はっきりと言い切った。
「わかんないんだけど・・・・でも、雪乃は・・・他の人と結婚なんてしない・・・と、
思う。」
あまりに、はっきりと言ったので、兄がびっくりしたように、目を見開いた。それから
、ゆっくりと頬を歪ませて、くくくくくっと笑った。
「そうか、おまえが、そう言い切る根拠が、早く思い出せることを、俺は切に願うよ。大
丈夫、きっと、わかる日が来るから。」
否定せずに、兄は頷いた。そして、帰宅の許可をくれた。誰かが、在宅している時だけ
帰宅してもよいという但し書きはついていたけど。
週末は、元々住んでいた家へ戻る。そこで、少しずつ仕事を始める段取りもした。季節
がゆっくりと動くように、少しずつ少しずつ、十年以上前の記憶も思い出せている。
・・・・少し・・・自分が信じられない記憶・・・・
でも、雪乃が誰とも結婚しない理由は得た。そして、自分が、どうしても、この関係か
ら離れられない理由も得た。
けれど、やはり、それは覆せるものではなくて、この関係のままでよいのだという結論
を与えてくれただけだった。
傍にいて欲しい。眠るその瞬間まで、でいいから。そうすれば、役目は終わり、彼女は
、ここを離れるだろう。それまで、このままでいい。
無償の愛というものを与えられている。けれど、それは一方通行なものだと気付いた。
与えられるだけで、与えることができないのだと気付いた。兄は惜しみなく私に、それを
注いではくれるけど受け取ってはくれない。いつもいつも、兄は私を庇護するばかりだ。
その意味を理解して、私は少し泣いた。兄がくれるものは暖かい。けれど、それは私を
守るためのもので、対等の立場ではない。対等でありたいと願っていたのに、兄は、私の
戸籍を用意した時に、私を妹にすることで、それを拒絶した。
兄が週末に家に戻るようになったので、私も、なるべく戻るようにしている。妹である
から、兄に甘えていてもよいのだと、私は割り切ることにした。
週末ごとに、兄と顔を合わせて、食事をするだけでも嬉しい。兄の親代わりをしている板橋さんたちは、兄に結婚を勧めている。けれど、兄が頑なに断るので、私からも口添えをして欲しいと頼まれていた。
・・・・そんなこと、私がするわけがない・・・
今のままでいい。兄が私を大切に守ってくれる、この関係を壊すようなことをしたくな
い。
いつものように、家に戻ったら、兄がソファに伸びていた。
「おかえり、ごめん、外食は無理みたい。」
昨日から頭痛が酷くて、外へは出られないノだと、申し訳なさそうに言う。
「それなら、無理に帰らなくてもよかったのに。」
「んー、でも、約束してたからね。それから、いつものやつは冷凍庫にあるから、忘れず
に持って帰ってね。」
私は料理音痴で、ほとんど自分で料理はしない。だが、兄がせっせと料理してくれたも
のを食べていたから、それ以外は、おいしいとは感じない。兄が二年近くも家に戻れなく
なって、私は泣く泣く職場の寮へ入ったのだ。それを知っているから、兄は週末ごとに家
に戻り、たくさんの料理を作っては冷凍してくれる。
「そんなことはいいからっっ。薬は? 」
「朝は痛み止めを飲んだ。」
「じゃあ、何かお腹に入れて、鎮痛剤を。」
「うん、それを調達してもらおうと思って待ってたんだ。どこかで買ってきてくれないか
な? その間に、昼ご飯の用意をしておくから。」
少し横になったら、楽になったと、兄は気楽そうに起きあがる。どこまでが本当なのか
、私にはわからない。兄は、私に弱音を吐かないからだ。
「オムライスとハンバーグ、どっちがいい? 」
何事もなかったように、尋ねてくれる。
「オムライスで、ホワイトソース。にんじんのグラッセも食べたいな。」
「ああ、グラッセね。うん、わかった。」
だから、私も何事もないように、リクエストする。少しでも兄が頼ってくれるなら、少
しは私だって与えられるのに、そんなことはない。昼食が終わったら、早々に退散しよう
と、家を出てから、雪乃に連絡した。
「お兄ちゃんが、少し具合が悪いの。今日は、早く戻れない? 」
仕事場へ直接に連絡を入れたが、雪乃は、すぐに応対してくれて夕方には戻ると約束し
てくれた。
私が居座ると、兄は、何かと動いてしまう。私が退屈しないように、私が心配しないよ
うに、元気なフリを続けるだろう。だから、こういう時は、バトンタッチするしかない。
悔しくても、兄が弱音を吐いて甘えるのは、雪乃だけだ。
わかってはいる。兄と対等で、兄が等身大で向き合える相手が誰であるか。ずっと以前
に、知り合いが、私の気持ちに気付いて忠告してくれた。
「あれを自分のものにしたいなら、生命賭けの覚悟が必要だ。」
「なぜ? ただ好きではダメなの? 」
ただ好きで一緒にいたいという想いで十分だと、私は反論した。
「あれを殺しても自分のものにしたい、と、思える位の覚悟がないと、あれは堕ちてこな
いからだよ。だから、早く諦めて新しい恋をするといい。」