篠原 求婚1
ずいっと、机から圧しかかるように、母親が顔を突き出す。もちろん、異論などない。
だが、自分からは言えない。一度、言って、「淡い期待」だけを貰ったからだ。
「・・・もし、あの人が、そう望んでくれれば異議はありません。ただ、あの人は望みま
せん。」
「そんなことはないわ。実際、あなたたちは・・・」
「付かず離れずの関係が、あの人の願いです。ですから、無理強いはなさらないでくださ
いね。そんなことをしたら・・・たぶん、全ての関係が白紙に戻ります。私たちの関係だ
けでなく、あなた方と、あの人の関係もないものになるでしょう。ですから、どうか、奨
めたりなさらないでください。」
自分は待っていればいい。いつか、彼が、ここでの生を費える日を。それまで、穏やか
な関係であればいいと思う。彼を取り巻く全ての関係が、暖かく穏やかであればいいのだ
。そうしないと、彼は静かに眠れない。
今すぐに、どうこうすることはない。十年待った。後少し待てばいいから、自分は先へ
は強引に進めない。
「小林さん、それって、あんまりじゃないの? 責任から逃れてて、ただ、あなたと一緒
にいるだけなんて・・・」
「いえ、それでいいんです。籍が変わるだけのことに、騒ぐつもりはありません。どうか
、それで。」
深く頭を下げた。ふう、と、大きな溜息が聞こえる。納得してくれたのだろうか、と、
思ったが、相手は、「では、義行が、その気になれば、あなたは喜んで、一緒になってく
れるのね。」 と、確認する。
「あの、板橋さん。」
「イヤなの? 」
「・・・いえ・・でも・・・」
「わかりました。じゃあ、そのつもりで、私は考えます。」
たぶん、いや、絶対に、頷くことはない。だが、それを言い募るのはやめた。もしかし
たら・・・と、また、「淡い期待」を抱いたからかもしれない。
「え? それは・・・・無謀な。」
相手は、机にある医事関係の資料を斜め読みしながら、苦笑した。
「無謀? それ、意味がおかしいんじゃないか? 」
「無謀じゃなきゃ、命知らずってとこかなあ。それ、板橋先生の母上ですか? 」
両親から告げられたことに、些か、板橋も驚いたものの、それは納得のいく意見ではあ
った。だが、その手の話は、以前から、いろいろとされていたが、自分の弟は、一度も首
を縦に振ったことはなかった。たまたま、顔を出した弟の友人に、そのことを告げたら、
こんなことを言うのだ。
「うちの両親が、できたら、年内にも、ってさ。命知らずって、どういうことだよ? 橘
君。」
面倒くさそうに、橘は資料から視線を板橋に向けた。
「それ、誰も今まで奨めなかったと思いますか? だいたい、あいつらのことは、VFの
関係者なら誰だって知ってる事実なんです。それなのに、今まで、そのまんまってことは
、そういうことなんです。」
あのふたりが、一対になっているのを、VFの関係者は、気付いている。もし、あれが
、完全に雪乃という存在を手放すというなら、さっさと、自分が求婚したいほどだ。だが
、その実体を、ずっと見ていた橘は、断念せざるを得なかった。どう見ても、ふたりは、
寄り添って生きているのだから。
「じゃあ、すでに、誰か奨めてるわけ? 」
「いや、もう、メインスタッフの年寄りたちは、全滅しました。俺たち先輩組も、同年代
組も、みんな、一度は薦めて玉砕しているでしょうよ。」
自分も薦めたことがある。だが、ものすごいことを吐かれて撤退した。さすがに、それ
を言われたのは、自分と岡田ぐらいだろうとは思うものの、近いことは言われているだろ
う。
「あー、なんかやっぱり問題があるわけ? 」
「うーん、問題っていうか、あいつに問題があるというか・・・・まあ、いろいろでしょ
う。」
「いろいろ? 身体的なこと? 」
「まあ、それが大きいかな。すいませんが、それについては、ノーコメントです。」
あまり細部まで聞かせるつもりは、橘にもなくて、話は、そこで途切れさせた。
自分のことが、雪乃の記憶に残るようなことはしたくない、と、橘には告げた。それま
で、散々に記憶に残るようなことがあったはずなのに、これ以上には、ダメなんだと、篠
原は泣き笑いの顔をして俯いた。
「変な形で心に留めるようなことをしたくないから・・・だから、それはできません。そ
れほど長くは一緒にいられるわけでもない。だから、このままで過ごしたい。」
意味がわからない、と、橘は怒鳴ったが、なんとなく理解はした。婚姻という形で、雪
乃を縛ったら、たぶん、彼女が残った時に、忘れられないということなんだろう。どう考
えても、篠原のほうが先にいなくなるのは、みな、予想がついている。未亡人になるより
も、ただの同居人とか同棲相手ぐらいのほうが忘れられると思っているらしい。
・・・・バカだな・・・あいつは・・・
余計な気遣いだと笑い飛ばすのは簡単だ。だが、その事実は、かなり重いもので、実際
、そうなることは目に見えてもいる。自分なんかより、相手が大切だから、あんなことを
言うのだ。それすら、たぶん、本人は気付いていない。
橘だって、できるなら、同居人とか後見人とかいうおかしな関係を、正しい関係にすれ
ばいいだろう、とは考えている。だが、そう忠告したら、「一年経たずに、僕が死んだら
、どうするんです? 」 と、真顔で首を傾げられたら返事に窮するだろう。
板橋の所から、職場に戻って、ふと、篠原の親友に尋ねてみた。「おまえは薦めたか?
」と。
「はあ? 」
「いや、だってさ。」
「俺は、雪乃には忠告しましたよ。さっさと押し倒して既成事実を作って婚姻届を出して
しまえ、ってね。そうでもしないと、あれは動かないからって。」
「おまえ、そんなあからさまな・・・」
「しょうがないでしょう? あいつ、晩生なんだから。あれが動くのなんか待ってたら、
白髪になる。」
もちろん、相手の返事は、「考えておくわ。」だった。波風立てない大人な断りではあ
った。諦めている風ではないが、雪乃も動くつもりはないらしい。
「別に形式に拘る必要はないと思いますがね。もし。結婚しても、今と何が変わるかわか
りますか? 橘さん。」
そういわれて、橘も、悩む。今も同居していることに変わりはない。傍目に見ている限
り、夫婦であることと、今の状態に、大きな隔たりなんてないのだ。
「変わらないだろうな。」
「なら、そういうことです。・・・でも、もしかしたら、板橋さんの母上なら、できるか
もしれませんね。」
今まで実質上の保護者たちから薦められてはいるが、両親という名の保護者から薦めら
れるのは、初めてのことだ。もしかしたら、成功するかもしれない、と、篠原の親友は考
えた。
「俺、結婚はしたほうがいいと思うよ。あいつに関しては、な。」
橘も正直なところ、形式に拘ってほしいと思う。
「それ、あんたが、雪乃を諦めるため、っていう理由なんでしょう? もういい加減、諦
めたらどうです? 橘さん。」
「うるさいな。踏ん切りってやつがあるんだよっっ。」
図星だった橘は、思いっきり怒鳴って、篠原の親友の頭を張り倒した。