夢と現の境にて◆弐
八時か…。壁に掛けられている時計を見ながら俺は作ったばかりの夕飯にラップをかけ冷蔵庫の中へと仕舞い込んだ。父さんが帰ってくるのは恐らく十二時ごろだ。今から狭霧の家に行ってもそれまでには帰って自分の部屋に戻れるだろう。家中の戸が開いていないことやガス栓など家の隅々を確認した後、鍵を掛けて俺は自転車で狭霧の家に向かった。
昼間訪れたとき、ばあさんに言われた事を暗い夜道の中ふと思い出した。今夜、あいつは一人だから傍にいてやれ、と言われたのだ。意外な一言に一瞬固まってしまったが。
まさか俺の理性を試そうというのか。俺はそう考えた後小さく溜息をついた。感づいてるわけでもないだろうがそれはそれで困る。何しろ夜あいつと二人きりとなる、となると、自分がどうなるかなんて検討もつかないのだから
そんなこんなで車通りが少ない夜道を悠々と近道をし、いつもより早く狭霧の家へとついた。が、しかし何かおかしい。遠めでもよく分かる狭霧の家を見ながら俺は少し嫌な予感がした。急いで自転車を止め玄関の前に立つ。電気がついてない…。ふと横を見るとバイクが置かれていた。誰か、いるのか。俺はさーっと血の気が引くような感じがし、目の前の戸を開けた。鍵が、掛かってない。
靴を放り出すように脱ぐと暗い家の中を駆け足で入っていった。夜道で大分目は慣れている。いるのはすぐ分かるはずだ。何処だ、何処にいる
妙に焦っている自分に、俺は一回冷静になれと自分に言い聞かせた。バイクが止まるほどなら知っている相手なはずだ。客間だ、とその考えに絞ると俺は前訪れて知っているその部屋の襖を勢いよく開けた。
…机の向こう側で何かが動いている。そして荒い息遣い。一瞬放心した自分を追い払いながら「誰だっ!」と声を張った。
その瞬間、蠢いていた影は驚いたように身体を弾ませると閉められた障子を開け窓から一目散に逃げていく。「待てっ!」と俺が走り出すと、また何か足元で動いた。少し驚いてしまいながらもまだ何かいるのか、とそれを見れば―――
「…さ…、ぎり?」
開けられた障子と窓からは仄かに月光が刺し、部屋を照らしていた。そして、その光に今足元で動いたものも映し出されていた。それは
着物を殆ど剥がされ、足は何かで濡れ、荒い息で肩を上下させ、ぐったりと横倒る、狭霧の姿があった。
呆然と立ち尽くしていた。何分かも分からない間。しかし、狭霧が荒く息をするほかに、時折嗚咽を零して泣いているのを見た俺はやっと我に返った。
狭霧に近づくと肩に触れた。その瞬間びくっと狭霧の身体が大きく震え横目で恐る恐る俺を見た。目が合う。そう思った瞬間、恐怖で強張っていただろう狭霧の顔が歪んだ。先ほどから溢れていたであろう涙は更に勢いを増し、流れ出てあっと言う間に頬を濡らしていった。そんな顔を見ていられず、俺は狭霧を引っ張り起こし乱暴に抱きしめた。構ってなどいられなかった。兎に角、抱きしめなければいけない気がした。
抱きしめられた狭霧は俺の背に腕を回すと、弱弱しい力で俺の服を握った。だけど、それは必死に自分を求めているような気がして、それだけで俺は涙が出そうだった。だけどそれと同時にどうしてもっと早く、来れなかった。どうしてもっと早く傍にいてやれなかったのかと、こいつの隣を一番欲していたというのに。許せない。誰がこんなことしやがった。自分の後悔を、加害者へとぶつけた。絶対に捕まえてやると、やり場のない怒りを歯を食いしばりながら何かにぶつけたかった。
「―――み、や」
腕の中で狭霧が何か言った。多分俺を呼んだのだと思い「うん」と怒りを抑えながら優しく返した。今は、こっちの方が大事だ。
嗚咽と息遣いで声が聞きづらい。時たま咳き込んで、大丈夫かと一々問いかけてしまいたくなる状態に俺はまた怒りが込み上げる。
「あ―――が、と」
「え?」
ありがとう、としゃっくりをあげながらもう一度狭霧がいった。「なんで」と俺が問う前に、助けてくれてと途切れ途切れにそして涙とともに吐き出す。そして何度も、何度もありがとうと、狭霧は言うのだ。なぜ、こんなに礼を言われるのか。一瞬分からなかった。分からなかったが…、恐怖、という言葉を浮かべた途端、悪夢の話を思い出した。こんな暗い中、突然襲われる恐怖。それはいつも見る悪夢と重ねて見るのはそう難しくないことではないか。