新月女郎
新月女郎――起
提灯を持たなければ鼻を摘まれてもわからない、新月の晩だ。その提灯だとて足元を心細く照らすだけで、一歩先に何があるのか誰がいるのか、出くわして初めて気がつくような暗闇である。江戸の城下は隆盛を極めているとは言えまだまだ夜は――特にこんな月の無い夜は人でないモノのための時間で、そこかしこに物の怪やけだものが潜んでいるような気配がある。どんどんと堤から水の落ちる音や、ざわざわと岸の柳が葉をこすらせる音の中に、ひそひそと何者かがささやきを交わす声が混じるような、そんな晩だ。
その気配から逃げるようにして、徳太郎は大門をくぐった。
この郷ばかりは、例え新月だろうが大嵐だろうが賑やかに三味の音が鳴り、何千本という蝋燭の明かりが夜空を照らして不夜城の名にふさわしい偉容を見せてくれる。それほど女郎買いには執着のない徳太郎だが、今夜のように妙な気配でざわざわと寝付けない日には、決まってこの色街に足を運ぶことにしていた。女の柔肌を抱いて寝るのが何よりの魔よけだが、例え袖にされても周囲の色事や戯言の気配は俗っぽくて欲まみれで、それだけで魔を寄せ付けないような気にさせてくれる。何にせよ独りで寝るのよりは余程ましだ。
時刻は大引け少し前で人通りも減ってきた頃、売れっ妓や馴染みのある女郎は既に客を捕まえて奥に引っ込んでいる。張り見世の前では他に振られた野暮な男と、売れ残ってお茶を引く女が、行くの帰るの出すの出さぬのと駆け引きをしていて、さながら花いちもんめの様相だ。さて徳太郎もその仲間に入ろうと、大見世の並ぶ目抜き通りから小見世へ抜けようとして、ふとその女に気がついた。