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ボンベイサファイア
ボンベイサファイア
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第九回東山文学賞最終選考会(3)

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 小皿に盛られているほうれん草の和え物は僕の好物で、いつも、なんでこんなに少ないんだろう、と思いながら口に放る。だからといってわざわざ多く盛ってもらうような面倒はしないが。
 「知り合いなのか?」
 確か、三度目だったと思う。僕は聞いてみた。
 彼女は口にまだ残っているものを咀嚼していて、箸を置いたり、皿を確かめたりしたりしていて、まるで僕の質問など聞こえていないようだった。その伏し目に映える睫毛はいつ見ても綺麗だな、と思う。
 「今度、お持ちしますね。」
 彼女の書いた小説の事だろう、僕は、わかった、待ってる、とだけ答えた。
 それからその週の水曜日に、つまり二日後に彼女が小説だけを置いていき、週末にそれを読んだ。愛欲と肉欲の微妙な差違の表現が優れている以外は課題も表現力も平均の少し上を行く程度だった。そして週が開けて感想と共にそれを返すと、講義や日常生活や勉強会を木曜日まで続けた。それは時間の割り当てこそ夏前の生活とほとんど変わらないものだったが、中身が全く違うもので、僕に取っては新しい人生が始まったかのように感じられた。しかし、多くの学生には近松門左衛門と柿本人麻呂の間に違いは見られないらしく、退屈そうにしていた。僕に取っては移ろい変わって行く季節も、彼らに取っては続いていく人生なのだろう。少なくとも、ここで学ぶ文学論については。
 木曜日の夜、資料を片付けると中野にあるファミリーレストランへ向かった。
 岬助教授が少し口にしていたが、僕は六年程前にある文芸誌で文学論にまつわるエッセイを執筆した事がある。当時、三十は過ぎているとは言え教授としても学者としても駆け出しだった僕が事情により異例の若さで教授職に付く事になり、その時の学長が応援の意味を込めて橋渡しをしてくれたのだ。
 その時担当してくれたのが折原君だった。
 折原君も大学を出て間もない、どちらかといえば新米の編集者だったが、僕の文学論上の主張に熱心に答えてくれたり望んだ資料を精力的に集めてくれたりしてこの人が担当で良かったと思ったことは数知れない。エッセイ自体は好評だったものの結局は特定の読者と思われる誹謗中傷に僕が辟易してしまい辞める事にしたのだが、その時も続投を強く望んでくれたのが彼だった。
 だから、五年ぶりに電話を貰った時は、単純にうれしかったし、この食事のお誘いもすぐに了解した。
 返事をして電話を切ってから、もしかしたらうれしく感じたのは岬さんの書いたものを読んだ影響かな、と思ったりもした。彼女の小説は無性に人恋しくさせるのだ。そんな時に自分の良い思い出の中の人から連絡を貰えば、よりうれしく思うのは仕方のない事だろう。
 とにかく、そんな気分のまま駐車場に付くと一台の車の扉が開き彼が出て来た。
 「先生、お久し振りです。」
 手入れをしていないことが一目で分かる黒いスーツと、シワを気にしてないシャツ、それに色あせているネクタイだったが、笑顔は裏の無いものだった。
 「五年ぶりぐらいですよね、ほんと、元気そうで、ささ、中入りましょうか、寒いでしょう。」
 折原くんの難点は話し方や態度が人に適当だと思わせる所だろうか。僕はもう慣れてしまっているので気にはならないが。
 「そうだね、五年も経つのか。元気そうでよかった。」
 言いながら中に入ると何組かが備え付けの椅子に座って順番待ちをしていた。折原君が表に何やら書き込んで戻って来る。
 そしてお互いに近況を、僕は狂雲集の研究の進み具合を、彼は仕事の忙しさを喧騒の合間に伝え合いながら時間を潰す。
 「だったら忙しいんじゃないですか。」
 「暇では無いけれど、まぁ適当にやっているよ。そっちの方こそ忙しそうだね。」
 そこで、通された。禁煙席だった。
 席に付くと、メニューを見ながら折原くんが答える。
 「今、不況じゃないですか。結構、煽り来るんですよね。こないだも課長が入れ替えになって、入れ替えって言ったって、左遷ですよね、新しい人、なんか中小企業診断士?だかで辣腕を振るってきた人らしくて。見方が違うんですよ。僕等、記事とか作品読んでそれが文学界にとって価値が有るのか無いのかって、絶対最初に考えるんですよ。もう、それは誰でも一緒で、その判断を大事にするにしてもそうじゃないにしても、絶対、最初にそれ、考えるんですけどね。」
 彼は注意深くメニューを目で追っていて、言葉は口の端から出ているようだった。僕は主にそんな彼を見ながら話を聴き続けた。頼むものは決まっていた。
 「課長はそういうの、無いみたいですね。まず、それがいくらの支出になるか、を考えて、そんで、その次にそれでいくらの金になるか、考えるんですって。結構僕等と喧嘩になるんですけど、主任がなんか一身に背負ってくれてて、なんとかなってる感じですね。それで主任も相当まいっちゃってるみたいで。あれ、多分、もう主任、普通の人間には戻れないでしょうね。決まりました?」
 自分のメニューを閉じると、僕の方を見た。
 「ああ、決まったよ。普通の人間には戻れないって、おだやかじゃない言い方じゃないか。」
 彼はすぐには答えず机の端に置いてあるドーム型の木目作りになっているものの上に付いているボタンをもったいぶるような仕草で押した。喧騒の合間に遠くからぴんぽぉん、と音がするのが聞こえる。その後、彼が上体を戻すと答えた。
 「難しいんですよ。」
 言いながらネクタイのシワを伸ばす。
 「難しいんですよ。先生、子供の頃、いじめられっこって庇えました?」
 僕はいいや、と答えた。庇えたかどうかはわからないが、庇おうと思った事は無かったように思う。
 「似たようなもんでしてね。まぁ違うと言えば違うんですけど。また、折を見て話しますよ。」
 フロアスタッフがやって来て註文を訊ねたので、僕はハンバーグセットを頼んだ。彼はチャーハンやら三品程頼んだ。
 それから少しお互いの近況の話、つまり仕事の話をして、やってきた料理を食べ始めた。彼のような仕事であれば当然身分のある人との会食もあるのだろう、見苦しい食べ方こそしなかったが、とても品のある食べ方とは表現出来なかった。空腹時に食事をしている、そんな印象を受けた。
 食べ終わって、お互いに珈琲を頼むと、彼がカバンを開けながら話し出した。
 「実はですね、先生。」
 そして簡単な冊子を取り出すと、机の上に置き、
 「今回は、これを頼もうかと思いまして。」
 僕の方へと少し滑らせる。
 その冊子は学生が作るような体裁で、向けられた表紙によく見るフォントで大きくこう印字されていた。
 第九回東山文学賞最終選考会
 僕は冊子を受け取った。
 珈琲を飲みながら彼が話し出す。
 「東山群次って作家がちょっと前に流行ったんですけど、ご存知ですよね。」
 「うん。」
 ぱらぱらと冊子をめくる。そこには文学賞の趣旨、最終選考員のメンバー、最終選考会の日程、等が簡単に列記されていた。
 東山群次。つい最近その名前を口にしたのを覚えているし、その折に彼にまつわる事を思い出して行ったので割と整理された形で記憶を引き出す事が出来る。
 端的に言えば、彼は三つの顔がある作家だった。