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ボンベイサファイア
ボンベイサファイア
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第九回東山文学賞最終選考会(3)

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3 住田教授の憂鬱

 九月も下旬に入り、残暑はいまだ厳しかったが後期が始まった。
 校舎へと続く道を数冊の本を抱えて歩いているとペットボトルを片手にした学生が挨拶をしながら通り過ぎていく。そのお茶を非常に美味そうに思いながら僕は挨拶を返した。教授室に入ったら、まず何か飲もう。
 そのまま照り付ける太陽の下で鮮やかな緑を輝かせている並木を過ぎ、校舎を目指す。
 部屋に入ると、窓を開け、扇風機を付けた。個人の方針としてエアコンは極力避けている。そのおかげでこの部屋を尋ねてくる人は少ない。一ヶ月程締め切っていた為にすっかり淀んでしまっている空気と本の香りとが窓から漂い出て行った。
 備え付けの流しでお茶を沸かしながら、冷蔵庫が主が居ない間も律儀に製氷していたかを確認する。手抜きは無かった。煙のように膨れて溢れ出す冷気の中に、冷たさと氷とがびっしり詰まっている。
 軽くではあるが、一通り部屋の中を掃除した。拭き掃除をし、掃き掃除をし、引き出しの中を開けてその中のものを適当に整理する。その間も幾度か窓の外を学生が通り挨拶を交わした。何人かが挨拶も無く通りすぎて行ったが特に気にはしなかった。なんにせよ、後期は始まり、彼らはまた一つ新しい事を学ばなければならないのだ。
 片付けが終わるとその他の雑多な事務も終わらせ、帰宅と出勤、それから午前の講義も終わった所で教授室の前で女に呼び止められる。
 「住田教授。」
 まず、香水の匂いがした。きつくはなく、ふわりとした感じで、よほど近寄らないと気付かない程だった。それから、その声音。張り上げた時のような鋭い感じは無く、柔らかく包まれていて耳に心地よい。それでいてその言葉は明らかに自分に向けて意志を持っている事がわかる。
 「なんですか、岬助教授。」
 彼女の体に丁度良いサイズの黒いスーツは仕立ての良さが伺えると同時に、彼女の魅力のある身体付きを強調している。それから、少し前屈みになって見上げるような姿勢で僕の目を覗き込んでくる。
 「二学期の方針について、どうです?お昼、まだでしょう。食堂ですか?」
 「僕は国文科。そして君は英文科のはずだ。」
 顔を背け扉を開ける。
 「それに、二学期では無く、後期だ。」
 そのまま中に入る。彼女が続いて入ってきて後ろ手で扉を閉めるが、その時には僕は机に周り上に教材を置いていた。
 「それは失礼しました。でも、同じ文学部として、方針を話し合っておくのは悪い事じゃないんじゃない?」
 言いながら彼女が近づいて来る。
 「それならミーティングをすればいい。」
 そして机の向かい側まで彼女は来て、それから、ぐい、と上体を机に傾けて囁いた。
 「バカね、少しお話したいって言ってるのよ。」
 僕の顔が少し赤くなったのを確認したのか、にや、と笑みを見せると、くるり、と振り向き歩き出す。
 「食堂でいいのかしら。」
 そして振り返り、先程のとはまた違う笑顔を向けてくる。その表情に、また、少し胸を締め付けられた。
 「いいよ。」
 と答えながら、独り身を相手にするのは簡単だ、とでも思っているのだろう、と推測する。
 二人で食堂に入った。丁度時間でそれなりに混んでいる中、僕は定食を頼み彼女は適当に惣菜を取ってきて開いている席に座った。
 「休み前に、たく君が小説持ってきませんでした?」
 冷や奴と秋刀魚の塩焼きが彼女のおかずだった。
 「たく君?」
 「寺西たくって子。経済学部の子なんですけど。」
 「うん、もう本人に返してる。知り合いなのか?」
 「どうでした?」
 この女は僕が質問を無視されても激昂しない事を知っているし、悪意の無い他人に対してはその言動を尊重する事も知っていた。
 だから、こういう方法でよく主導権を握って行く。僕は答えた。
 「非常に良く書けていたと思う。言語での理解は不可能だろうという絶望感、一転して最後で迎える理解とも呼べる感情、そこには拒絶とも理解とも呼べない、その両方とも言える感情が良く表れていると思う。その違いを際立たせたいのか、どうも父親やその周辺の人間の設定が多少作りすぎな印象はあるが、主人公の意識が二律から開放されていく様子とその満足感はあの歳で表現するのは難しいと思う。まさに、単語で表現出来ない人間模様を文章で表せていたと思う。」
 感想を述べている間は箸を置いた。その間、彼女は少しずつ箸を動かしていて、必要以外はまっすぐに僕の目を見ながら聞いていた。
 言い終わって箸を動かし出すと彼女との会話が始まって、お互いに聞いたり答えたり、食べたりする格好になる。
 「随分、高評価なんですね。」
 「読んだのかい。」
 「一番に見せてくれたわ。」
 「知り合いなのか?」
 定食の味噌汁は少し味噌が濃いように感じたが、それが最近の学生の一般的な好みなのかもしれない。
 「男の世界はわからないんですよ。ましてや、父親との関係とかは私には無縁な課題ですから。そうそう、私の小説も読んでくれませんか。」
 何人かが僕達二人を見ながら彼女の向こうを通りすぎて行った。その瞳は好奇心を隠そうとはしていない様だった。また、彼女が度々僕の後ろに目をやるところを見ると、見えているものは彼女も大して変わりは無さそうだった。
 「もし、」ご飯で少し口をもぐもぐと言わせながら彼女が続ける「教授の評価が良ければ、ちょっと文学賞にでも応募しようかと思ってるんですよ。」
 「文学賞?」
 何気なく聞き返したつもりだったが、口にしてから、何かが僕の頭を掴んだように感じた。
 文学賞。
 その感じは単純な事実から来ていた。今までの話で何一つ噛み合っている事が無いという単純な事実。
 それともこの一月あたり、無機質なアパートの一室で室町時代の風俗と狂雲集について一字一句を追っては筋の通っている意味を書き連ねていた生活をしていたことが、普通の会話をそう思わせているだけなのだろうか。
 それは単純に僕が少しばかり非日常的な会話の世界に馴染んでしまっただけで、現実はこんな感じだったのだろうか。
 その逡巡を彼女は文学賞への興味と受け取ったのか話し出した。
 「東山文学賞って知ってます?純文学の新人賞らしいんですけど。」
 「東山群次由来の賞だね。知ってるよ、その賞も、」
 僕は頭を切り替えた。
 「その本人も。」
 「え?」
 「東山群次先生には、一度、お会いした事がある。」
 「そうなんだ。じゃぁ、顔が利いたりします?」
 「まさか。」
 「でも、確か東山賞主催の出版社でお仕事したことありましたよね?」
 確かに、六年程前文学論にまつわるエッセイを連載した事がある。しかし、その会社が東山文学賞を主催している事は言われて始めて気付いた事だった。
 「言われてみれば一緒だな。今、気付いたよ。」
 正直にそう言うと、数秒、彼女が僕を見た。その言葉が本当か嘘か見抜こうとしている様だった。嘘は言っていない。僕は表情を変えなかった。
 「たく君も、」どう判断したかは分からなかったが、彼女が続けた「投稿したみたいなんですよ。」
 「東山文学賞に?」
 「ええ、どうですかね。」
 「さあ。そればっかりは選考員に聞いてみないと、ね。」