夢と現の境にて
時々道を聞きながら、俺は狭霧の家目指して自転車をこぎ続けた。腰に回された腕は女の様に細く色白い。背中に当てられているだろう頬の感触にふわりと心が浮くような気持ちになる。ああ、本当に、厄介なものと遭遇したのだな、とこんな状態になって初めて感じた。だが、後悔の念は一切持ってはいなかった。
「あれ」と狭霧が指差したのは、遠めでも分かるほど随分と古くて大きい、和の漂う家だった。「でかいな」と一言言うと「ばあさまの家だから」と気になることを言われた。ばあさま?
前までくると自転車を止め狭霧を下ろす。「じゃ」と言って立ち去ろうかと思っていると急に狭霧の家の玄関の戸がガラガラと音を立てて開いた。横で狭霧が青白い顔になる。そこには狭霧より少し小さいばあさんが鋭い目つきで立っていた。もしやこれが先ほどいってたばあさまか、と考えていると「憂」と聞きなれない名前を言った。「はい」、横で狭霧が震える声で返事をした。あれ、【ゆう】じゃなくて【うい】って読むのか。俺が妙に感心していると、狭霧が深く頭を下げた。
「帰りが遅くなってすいません、少し気分が悪くなってしまって…」
狭霧がそう謝るとばあさんは返事もせずにそれを見た後、今度は俺の方をチラリと見やり「こいつはなんだ」と偉そうな口調で問うた。狭霧は少し口ごもった後、クラスメイトです。と返した。「クラスメイトに家を教えたのか」そう責める口調に「はい」と小さな声で答える。嫌な空気だ。俺は思わず口を開いた。
「命を助けられました」
隣で狭霧が俺を見ているのが分かる。あまり口出ししない方が良い、となんとなくそういわれているようにも感じた。が、ここまで来たのは自分の意思だ。自分で伝える。
ばあさんはその鋭い目つきを更に細めると低いしゃがれた声で「それで、恩返しでもしようというのかね」と、フンッと小馬鹿にしたように笑った。俺が黙っているとばあさんは更に続けた。
「見返りなんて求めてない、さっさと忘れて元の場所に戻れ。安易に他所様のことに首を突っ込むと…戻れなくなるぞ」
これは最後の警告とも思えた。ここから先へ入ればもう、後戻りは出来ない。これ以上の事を知ることは、俺の全く違う世界のことなのだ。知ってしまえば逃れられない。もう、ただの一般人には戻れない。
俺は深く息を吸い込むとそれをゆっくりと吐き出した。ここが別れ道だ。ここで自分の運命が大きく変わる。横で俯く狭霧が目に入った。きっと、断ると思っているのだろう。それほどまでに自分に真剣になれるわけがないと。
ほんと、そうだよな。
自分でそう思った。本当だったら、普通そうなのだろう。
だが、今の俺は違うのだ。