珈琲日和 その8
「水も滴るいい男は、もっとも女が魅かれやすい」
その方は皺でできた窪みの、奥の優し気な兎のような茶色い丸い目を何度か瞬かせて、所々隙間の空いた小さな歯でにやっと笑いそして、鼻から出ていたごま塩の白髪を徐に引き抜いて灰皿に捨てました。
「ちょうどあんな人物を探していた。お陰でいい作品が書けそうだ」
その方は、ごま塩頭を何回か振り乱し、再び分厚い原稿にかがみ込んでせっせと万年筆を動かし始めました。原稿には、ぱっと見ただけでは到底解読不可能な黒い荒っぽい文字がところ狭しと暴れ回ってました。
僕は感嘆の溜息をつきましたが、もうその方の五感も意識も、原稿の中で不可思議な文字達と一緒に一心不乱に踊り始めているらしかったのです。
その方の近くのランプを点けて、僕はカウンターを片付けに戻りました。
さっきの男性が灰皿に擦り付けて消した、無理に半分折れ曲がった形の煙草が半透明な白く細い煙を真っ直ぐにあげて、微かに燻っていました。それはまるで、男性の無理に消された心の燻りのようにも見えたのです。
窓ガラスが軋んで、強い北風が切な気な声を上げて吹き荒みました。同時に窓際のお客様が小さなくしゃみをしました。僕はストーブの火力をもう少し上げる為に、ストーブの近くで黒いシミのように固まっている小太郎を横に移動させました。
今夜も寒そうだな。
それから数日後。僕は店の休みを利用して、古道具屋やリサイクル屋を巡って、店で使う食器やカップを物色して回っていました。
新品ももちろん良いのですが、何しろ予算の関係と、ありきたり過ぎて今いち面白みがないので僕は敢えて古道具、リサイクル品を利用していました。個人的には骨董品も好きではあるのですが、価値があればある物程、普段使いにするにはもったいなくていけません。
それにしても、こういった物色は本当に面白いのです。昔のものは味があり今の物にはない、ずば抜けたセンスがあります。先例されたデザイン。溜息が出てしまいます。
古き良き時代の代表に相応しい物の数々が、彼方此方に隠れていて、まるで宝探しをするような気分です。
リサイクル品もなかなかどうして捨てた物ではありません。一部の方には気に入られず不必要とされた物でも、また違った方は気に入って必要と感じる仕組みになっているのですから。古道具、リサイクルと侮ってはいけないのです。
そんな蘊蓄をずらずらと1人考えては1人で納得しながら、品物を見て回り、気になった食器、カップを幾つか購入しました。
今日も白い太陽が当らない部分は凍える程寒く、当る部分は差すように暖かい冬日和でした。
高さの不明瞭な何層にも重なった薄青い空の下、粗方、馴染みの店は回ったので、そろそろお昼にしようかと思い、街外れの坂の上にある、よく行く蕎麦屋さんまでのんびり歩いていきました。すると、坂を登りきる手前、目的のお店が見えてきた丁度向かい側にリアカーを立てて作られた看板を掲げて、見慣れない新しい古道具屋ができていました。
古道具屋に目のない僕は、蕎麦を食べる時間をとりあえず置いといて、もちろんそっちに向かいました。
狭い入り口の脇には、小さな信楽焼の狸が可愛らしく3つ並んで、下には水を張った火鉢の中に水草が浮いていてメダカが泳いでいました。
昼間だと言うのに薄暗い店内には、アンティークらしきランプシェードがオレンジ色に灯り、心地よい響きを刻む柱時計も見えます。
細かく仕切られた味のある木製の棚には懐中時計やら錆びたハーモニカやらジッポやらコケシやらがランダムに並べられています。
まるで玩具箱の中に紛れ込んだような錯覚を起こしそうなくらいに、小さな店内はどこもかしこも渦高く物が並んでいて圧倒されてしまいました。
そんな中、あまりに馴染んで見落としそうなくらいの柔らかい雰囲気の照明の下、食器コーナーを見つけました。
揃っているセット物が多かったのですが、単品の物でも面白い物が幾つかありましたので迷わず手に取りました。それを持って、もう少し店内を見ようと、キョロキョロしていますと突然小さな白いカウンターが現れました。どうやら会計場所のようです。店員は見当たりません。
僕はそこに置いてあったホテルのカウンターにあるような小さな銀の呼び鈴を何度か鳴らしました。しかし誰も出てきません。代わりに鳩時計の鳩が飛び出してきて一回鳴きました。
それぞれの時計の針がそれぞれ違った時を刻む音がBGMのように静かに繰り返しています。やれやれ。
「すみません。どうもお待たせしまして」
どこかから低い声がして、振り向くといつかの男性が頭に手ぬぐいを巻き、びしょ濡れになった軍手を外しながら眩しい外の光を背に受けて軽快に近付いてきました。
「お向かいのお蕎麦屋さんに、昨日取り付けた水車がいきなり倒れてきたってんで、ちょっと修理に行ってたんです。申し訳ない」
「そうですか。それは大変でしたね。直りましたか?」
「ええ。ネジの留めの部分が劣化していたみたいだったので、そこを交換して・・・あっ!あなたは、昨日の喫茶店のマスターじゃないですか!いやはや、度々ご迷惑をおかけしまして誠に申し訳ない!」
彼は真っ赤な顔を更に赤黒くして、汗を拭きながら慌てて深々とお辞儀をしました。
「いえいえ。気になさらないで下さい。しかし、良いお店ですねぇ」
「ありがとうございます!元々はワゴンに積んで彼方此方気ままに店を出していたんですけど、この度、念願叶って路上店を出させて頂きました!宜しくお願いします!」
この前の声とは打って変わって、彼は鼻の下に生えている無精髭を指で擦りながら元気良く言いました。
良かった。そこまで落ち込んではいないようです。
彼は僕の手から食器やカップを受け取ると、相変らず皹の酷い荒れた手で、新聞紙に丁寧に食器やカップを包んで更にプチプチで包んでくれました。
「もしかして、これから向かいのお蕎麦屋さんにいらっしゃいます?」
「はい。そうですが?」
「いや。水車が倒れちまった勢いで、その傍で丁度出来上がった昼分の蕎麦も全部ぶちまけちまったみたいで、もう昼営業は終わってるんですよ」
「ええ!」
お預けを食らった僕の胃袋は、ひもじい子猫のようにもうさっきからクークー鳴いて訴え続けていたのです。ここから街まで取って返し、再びなにを食べようかと、お店を探す気力は、空腹になり過ぎた僕の体には到底残っていそうになかったのです。
「あの、良かったら、俺も昼飯まだなんで、インスタントですけどラーメン作るんで食べて行きませんか?」
「え!? でも、お仕事中に悪いですよ」
「この前のお礼です。食べてって下さいよ」
彼はニコニコと白い歯を覗かせながら、人の良さそうな笑みで何処からか鍋を取り出して、手前に置いてある5000円と値札がついている冷蔵庫を開けて、中から卵を取り出し、手際良く用意し始めました。
「ありがとうございます」
こうして僕は売り物の丸いすに座って、彼が作ってくれたチキンラーメンを、彼とカウンターを挟んで向かい合い啜ったのです。
そのチキンラーメンの美味しかった事。
「俺、惚れやすくて振られやすいんですよ」