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珈琲日和 その8

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「あなたとは、もう一緒にいられない」
 年が入れ替わった細かい光が降り注ぐ冬晴れの緩やかな昼下がり。細長い窓から差し込んでくるあと1時間程で陰ってしまう細長い日差しの帯を眺めながら、明日からのお薦めランチは何にしようかと考えて、グラスを洗っていた時でした。
 ちょうど流れていたSTINGのEnglishman in New Yorkが終わり、無音の余韻の中、不意に聞こえたその言葉に僕ははっと胸を突かれて顔を上げました。
 店内には窓際の小さなテーブルに陣取り、熱心に原稿を書いていらっしゃる白い髭をふんだんに蓄えた老紳士と、壁際のテーブル席に神妙な面持ちで向かい合った20代後半くらいのアベックの2人しかお客様はいませんでした。先ほどの声の主はどう考えてもアベックの女性の方でしょう。僕の位置からは女性は背を向けていて、綺麗な長い髪以外はその表情は伺いしれなかったのですが、向かい合う男性は薄く開いた笑っているようにもとれる口で、些か驚いてはいたものの、なんとか平然を装って、ひたすらカップの中の残り僅かになったブレンドをかき混ぜていらっしゃったのです。
「私達は、別れた方がお互いのためよ」
 Shape of my Heartがごく静かに流れ出しました。 ああ、辛過ぎます。
 僕は無意識に二人にかつての僕と妻の姿を重ねてしまっていました。どうして女性は別れる時、必ず揃って同じ言葉を言うのでしょう。
 それが一番明確で、ある程度相手を思い遣る気持ちを含み、ソフトなのはわかりますが、いかにせストレート過ぎるのです。それに必ず、お茶や珈琲を飲みながらと言うシチュエーションも頂けません。折角のお茶や珈琲が台無しになってしまいます。
 その到底希望等は微塵も見えないアベックの成り行きを歯を食いしばってただ見守りながら、僕は落ち着きなくカウンターの中をオロオロと歩き回る始末でした。
「今までありがとう」
 男性はもはや意識すら遠い何処かに飛んでしまったのか、将又後悔の念に駆られているのか顔を深く垂れ、それでも目を瞬かせながら何度も空のカップを口に運び、ひたすらスプーンでなにも入っていない空のカップの中を忙しない音をたててかき混ぜているのでした。
「さよなら」
 カップをかき混ぜる音が一層忙しなく大きくなりました。もう聞いていられません。
 しかし女性は風のようにさっと立ちあがって白いコートを纏い、台本でもあるのではと疑ってしまう程の手際の良さと本当に滑らかな動きで、文字通りあっと言う間に店を出て行ったのです。
 残された男性はようやくカップをかき混ぜる手を止めて、がっくりと肩を落として、項垂れていました。その悲しみ、失望は傍目にも明らかでした。
 まるで2年前の僕を見ているような心地がいたしました。
 僕は本当にその方に同情してしまい、思わずおかわりのブレンドをお出ししました。
 30前半くらいでしょうか。まだあどけなさの残る無精髭を幾らか生やして、くたびれた灰色のパーカーを着込んだその方は、すみませんと、ぼそっと呟くように言うと皹だらけの指の短い手でカップを受け取りました。
「あの、席、移動してもいいですか?」
 その外見とは裏腹な、つぶらな子犬のような真っ黒な瞳でおずおずと聞いてきました。
「もちろん どうぞ」
 その方は巨大な芋虫のような薄灰色のダウンを片手に、カップを持ちカウンターの端っこに席を移しました。
 僕がお二人のテーブルを片付けに行った時に、女性の座っていた席からやけにハッキリと柑橘系のコロンの匂いがしたのです。成る程。これでは辛い。
「すみません。年明け早々とんでもないものをお見せしちゃって」
「いいえ。気になさらないで下さい」
「今日、年明けの初デートだったんです。このお店は前から気になってたんで、永和湖に遊びに行ったついでに足を伸ばしてちょっと寄らせて頂いたんですけど・・・ははは。まさか俺も振られるとは思いもしなかったもんで・・・」
 そう言いながら男性は煙草に火を点けて、一息吸うと吐き出すのと同時にまた深く頭を垂れました。ついでと言っても永和湖はこの街からかなり離れています。
 そんな遠くからわざわざ来店して下さったのに、こんな事態になってしまった事に対して僕はなんと言って良いやら考え倦ねて、今朝焼いたばかりの出来立てのロールケーキを薄く切ってお出ししました。
 なんだか子どもみたいだと思われてしまうかもしれないのですが、充分わかっている必要としてない慰めの同情の言葉よりは、ロールケーキが出てきた方が慰められる気がしたのです。
 実際僕自身は落ち込んでしまったり、嫌な気分になってしまった時に特定の誰かに聞いてもらいたい時もありますが、同情や慰めの言葉をかけられるのはどうも苦手でした。
 もちろん、心配してくれる相手の気持ちもわかってはいるのですが、人間の小さな僕は内側に閉じこもってしまう癖があるのです。相手によっては傲慢と思われてしまうかもしれませんが、そんな状態になってしまうと自分の中で負のスパイラルが回り始め、周りのどんな景色も言葉をも弾き飛ばしてシャットダウンしてしまうのです。
 それは僕が誰の助けも必要としていないのだと言う事になるのかもしれません。または自分でどうにかしようとしているのかもしれませんが、果たしてどちらの効果なのかは情けない事には僕にも判別がつかないのです。
 その男性は消え入るような声ですみませんと小さく呟くと、黙ってロールケーキを食べ、ブレンドを飲み干すと幽霊みたいにふらっと立ち上がり、店を出て行きました。
「さっきの男、いい雰囲気だったな」
 夜が何枚かの薄い黒い層を空に投げかけ出し薄暗くなってきた窓際の、テーブル席に座っているお客様に珈琲のおかわりを継ぎ足しに行った時、その方が使い込んで飴色になった万年筆を休めて、猫を可愛がるように髭を撫でながらふと言ってきました。
「なんですか、いい雰囲気って?」
 変な事を言う方だと思いながらも、思わず聞いてみました。
「振られた男のいい雰囲気が滲み出てた」
「降られたですか? それとも、振られたですか?」
「もちろん、どちらもだ。失恋の水も滴るいい男」
 成る程。さすが書き物をされていらっしゃる方は目のつけどころが違ってます。
 僕も、曇りどころか雨まで降っているような敏感な心境の時は、あまり慣れない人とは接しないようにしています。相手にいたずらに冷たく悲しい雨滴を飛ばしてしまい、困らせたり、傷付けたりして滲みを作ってしまいかねませんので。
 そんな時は堪えて、なにか他の事に没頭出来るならして、じっと雨宿りをしているに限ります。そうすれば、きっといつか雨は小雨になり、雲間から穏やかな太陽だって覗いてきます。そうやって生きていくのです。と、僕は妻との離婚後、2年もかけてようやく悟ったのです。長過ぎますか? そうですね。
 僕は妻の事を僕なりにとても大切にしていました。だからこそ、その喪失感は誰に対してよりも大きかったのです。その冷たい雨は、いつまでも寂しく僕を、僕の心を万遍なくじっとりと濡らしていましたっけ。
 さっきの方も言われてみれば、そんな雨に濡れたような感慨深い雰囲気があったような気がします。
作品名:珈琲日和 その8 作家名:ぬゑ