ささのはさらさら
(晴れてよかったな)
玲一はそう思いながら、気持ちいいくらいに赤い夕焼けを見上げた。
いつもより一限早く終わる今日の放課後に多目的ホールで行われた七夕祭りのオープニングは、合唱部と吹奏楽部のセッションで予想以上に盛り上がった。
人も予想しているよりは集まってくれた。みんなわいわいと騒ぎながら短冊に願い事を書いている。
美術部や機械工学部は、なにやら凝った七夕飾りで皆を楽しませていた。
(……なんか)
楽しいな。
自分が企画した訳でもないのに、玲一はそんな事を思っていた。
発案者の諏訪めぐみは、さぞかし楽しいんだろう。
(そういえば)
諏訪めぐみはどこだ?
こういう時に中心にいるはずの諏訪めぐみがいない光景は、なんだか落ち着かない。
また裏方で何かしているのだろうか。
辺りをきょろきょろと見回していると、ふいに肩を叩かれた。
「八坂くん、おつかれ」
諏訪めぐみだった。
「あ……ああ、うん。よかったね、七夕祭り、受けたみたいで」
「うん……あのさ、八坂くん」
「うん?」
「ちょっと、話があるんだけど、いいかな? 向こうのベランダに来てくれる?」
どうしても、大事な話があるのだと、諏訪めぐみはいう。
嫌な予感がする。
「ごめんね、いきなりで」
「あ……ああ、いや、いいよ。どうしたの、諏訪さん」
諏訪めぐみを、こんなに近くで見るのは、きっと初めてだ。
普段見ているときより、彼女は小さく、幼く見えた。
それは多分、諏訪めぐみが普段見せることの無い、自信がなさそうな態度の所為だった。
なんだ、これは?
こいつは本当に諏訪めぐみか?
普段、太陽のように明るい彼女は、今は思いつめたように唇を引き結び、顔を伏せている。
お人形のような睫毛がかすかに震えているのが見えた。
嫌な予感がする。
玲一はその『予感』を頭の中でゆっくりと反芻する。
それは、玲一が最も望んでいた結末だったが、玲一が最も望まない過程を経てのものだった。
「私、ずっとね。七夕祭りがうまくいったら、言おうと思ってたの」
言わないでくれ。
それは、俺と勇作以外の人間に言ってくれ。
俺じゃない。
それを言う相手は、俺じゃない。
「八坂くんのこと、スキなんだ」
つう、と背中が冷たくなった。
耳のすぐ近くで、刃がキシキシと鳴る。
その刃は、今から諏訪めぐみの心をズタズタにするに用意されたものだった。
「もし、よかったら……付き合って、もらえたら……嬉しいな」
諏訪めぐみが、勇作を振れば。
勇作以外の人間を好きになれば。
ずっとそれを望んでいた。
でも、その役がまさか自分に回されるとは思わなかった。
ここで諏訪めぐみの告白を受け入れれば、勇作とはもう、友達ではいられなくなる。
あいつを、裏切りたくは無い。
諏訪めぐみの願いは、『恋がしたい』だった。
もしこの茶番劇に演出家がいるとするなら、今頃空の上でいちゃついている織姫と彦星、多分そいつらだろう。
お前らが幸せに浸っている間に迷惑している人間がいるんだぞ。
「……諏訪さん」
ごめんね。
口から出た言葉に諏訪めぐみは目を見開いて、すぐにぽろりと涙を零した。
誰も知らない諏訪めぐみを、俺は見てしまった。
「――俺は、諏訪さんのことを何よりも大事だと思っている人を知ってるから。付き合うとか、そういうのは、そいつを裏切ることになるから、出来ない。ごめんね」
「あ……ううん……そんな……謝るのは、私、だよ。うん……言えてよかった。ありがとう、八坂くん」
諏訪めぐみが涙を手の甲でごしごしと拭う。
「……本当に、ごめんね」
俺は、そう言い残して諏訪めぐみに背を向けた。
その場に座り込んだ彼女のすすり泣く声が、背中に突き刺さった。
「勇作!」
機械工学部のエレクトリックな七夕飾りに「うおー」だの「すげー」だの頭の悪さ丸出しな感嘆の声を上げている勇作の肩を掴んだ。
「うわっ、な、なんだよ玲一!」
「エマージェンシーだ。諏訪さんが、泣いてるぞ」
「えっ? ……えっ!」
勇作が、いつになく真剣な表情を見せた。
何をやっているんだ、俺は。
キューピット気取りか。畜生。
「すぐ慰めに行ってやれ。彼女、向こうのベランダにいるから」
(俺が振った所為だけどな)
もしその事実を告げれば、勇作は俺を殴るだろう。
――いや、違うか。
言っても言わなくても、勇作は俺の方など見ないで、一目散に諏訪めぐみのもとへ駆けつけるだろう。
「わ……わかった、すぐ行くっ!」
勇作は、わき目も振らずに走っていった。
ああ。
これで、よかった。
後悔がない訳じゃあない。
俺は、『諏訪めぐみが弱っているときに偶然現れ彼女を慰める勇作』というお誂えの舞台を作ってしまった。
これで俺の願いどおり勇作がうまくやれば、あいつらは晴れて付き合うことになるかもしれない。
隠れて、ベランダを覗きみる。
蹲って泣いていた諏訪めぐみのもとに、勇作が駆け寄る。
顔を上げる諏訪めぐみ。
「なんでもない」とでも言っているんだろうか。
勇作が何か言って、諏訪めぐみと視線を合わせるようにしゃがんだ。
諏訪めぐみの願いも、これで叶うだろう。
『恋がしたい』という願いは、『八坂玲一と恋がしたい』と決して同義じゃあない。
(あいつらなら、うまくやるさ)
ベランダの影に隠れて、勇作が諏訪めぐみを抱きしめているのを、俺は遠く遠くを見るようにして見ていた。
諏訪めぐみの小さな手、細い腕が、ためらいがちに勇作の背中に回される。
勇作の手が、ますます諏訪めぐみを強く抱きしめる。
俺はまるで、川の向こうのお花畑を見ているような、そんな心地だった。
いつの間にか傍にSハクが立っていて、「水を差すなよ」と小声で言って僕を引っ張って笹の下へ連れて行った。
もうオープニングセレモニーは終わり、多目的ホールに残っていたのは、片付けに追われる生徒会のメンバーだけだった。
「君は、最良の選択をしたと思うよ」
まるで一部始終を見ていたかのような口ぶりでSハクが言った。
「……俺も」
諏訪めぐみの短冊が、風にゆられてひらひらとはためく。
「俺も、いつかあいつらみたいな気持ちになるんですかね」
「ああ。きっとそうさ」
Sハクは扇でパタパタと小さく風を起こした。
涼しい風が、俺の顔にも当たった。
「そして、君が恋に狂うのを見て、君のような嫉妬に燃える人間もいるだろうね」
誰とは言わないがね。
――俺は、Sハクが短冊に何を書いたか訊こうとした。
何故訊くのか分からなくなって、やめた。
大きな大きな笹が揺れている。
この学校中の生徒たちの願いを、いっぱいいっぱいにぶら下げて。
無数の短冊に書かれた願いは、いくつ叶うだろう。
織姫と彦星の逢瀬の喜びのおまけに、いくつもいくつも叶うだろう。
けど、俺は忘れない。
誰かが願いを叶えて喜ぶその時、きっと、泣きたいのをこらえて「おめでとう」という誰かがきっといるんだ。
俺の大事な人は、おはじき一つじゃ繋ぎとめられなかった。