黒猫の恩返し
……失敗だった。
黒帝を連れて昨日にもきたスーパーに入った途端、私は後悔した。
……視線が痛い。
ついでに店内が騒ぎ声でざわざわとしているが、この純粋な興味で束ねられた視線に比べればなんてことはない。
さっさと買い物を済まして帰ろう。私は胸に固く決め、全身に気合を入れた。
そんな時、肩をとんとんと軽くたたかれた。
「くるい。」
「何?」
「今晩は、秋刀魚がいい。」
意外と庶民的なようだ。大変喜ばしい。
ざっかざっかと黒帝を横に連れて進むと、モーゼの十戒で出てくる海が割れるシーンのように、人ごみの中に道ができた。
猫又にとっても、その光景は奇妙に映るようだ。黒帝が不思議そうにそれを見渡していたので、私は小さく笑ってしまった。
黒帝のおかげで買い物はすぐに終わった。ご飯のメニューが決まっていたというのもあるが、立ち止まって食品を吟味していると視線をもろに感じてしまうのが一番の理由である。
レジで支払いを終え帰路に着くと、ほどなくして黒帝はぼそっといった。
「我の趣味は人間観察だ。」
何故このタイミングでそんなことを切り出すのか。内容を聞いた瞬間にそう思った。
それでも。まだ続きがありそうだ。なので、適当に返事をしておいた。だが、黒帝は聞いていないようだった。
「猫又の寿命は長い。人間はよく寿命が延びることを望むが、我らから言わせてもらうと暇だ。だから暇つぶしに人間を観察していた。」
「……どうだった?」
「理解不能だった。」
そりゃそうだろう。私たち人間だって、他の動物がやる行動は意味不明だ。
「人間は我々と同じく理性を持っている動物だということは知っている。しかし、人間が一体何の目的で行動をとっているかが分からなかった。けれど今、ようやく分かった。」
私は黒帝を見上げた。今、というと、買い物しかしていないように思う。こんな日常的なところから、何を発見したのか。
「人間の世界は、金を中心に回っているのだな。」
「……そう見える?」
「あぁ。勿論、よい意味でも、悪い意味でも、だが。」
「ふうん。」
分かっていてくれてよかった。人は確かに金のためにどれだけでも落ちることができる。
でも、もともとその金は何故必要になったのかということを、分かっていて欲しかった。これはすべての事に言えることだが、金は、人を狂わせることもできるし、幸福にすることもできる。全ては、使い方次第なのだ。
黒帝は、ちゃんとそのことが分かっている。これなら今すぐには気がつかなくても、幸せにできる使い方にいずれ、気がつくだろう。
「猫はどうなの。何が世界の中心?」
私は少し明るい気分になって尋ねた。
「そうだな。」
黒帝はあごに手を持っていきながら呟いた。余談だが、黒帝はただ立っていても歩いていても何をしていても格好よく見える。なので、黒帝が一々動作をするたびに、いつの間にか集まったギャラリーが沸く。かなり迷惑だ。
「我々猫又はこれといって中心となるものはなかったと思うが、そこらにいる猫は、食物や支配地が中心になっているだろう。」
支配地とは、縄張りのことだろうか。
「ふーん。……じゃあ猫又は暇なんだ。」
少し黙るかと思いきや、黒帝は即答した。
「ああ。暇だ。」
再び適当に返事をしてから、私たちは家に帰るまで一言もしゃべらなかった。
友達と遊びに行ったり、宿題したり、黒帝と一緒に掃除や散歩、買い物をしたりしながら、母が帰ってくる三週間は今日になった。ここまで時間を早く感じたことは初めてだ。自分でも気付かなかったが、結構楽しんでいたのかもしれない。
黒帝は今、この家にはいない。朝起きたらすでにいなかった。前から時々ふらっといなくなったりはしていたが、今日は違うと思う。おそらく、戻ってはこないだろう。
寂しくなるだろうと予想はしていたが、未だに実感が沸かない。そのせいか、朝食を済まし片付けをした後、ずっと台所のテーブルについてぼうっとしながら座っていた。
その時。
ピーンポーン
チャイムが鳴った。おそらく、母が帰ってきたのだろう。先ほどから変わらず呆けたまま玄関へと向かい、扉を開ける。
「あ、こんにちは。お届けものでーす。」
目の前に、ある運送会社の制服を着た男の人が立っていた。
母だと思い込んでいた私は対応が遅れた。
「……はあ。」
「ここの家の方ですか?サインお願いします。」
「……はあ。」
「あと、結構荷物あるんですが、よかったら中にお運びします。」
「え……、いいです……。」
私はぼけっとしながら自分の名前を書くと、トラックに乗り込んで去っていった配達の人を見送った。
ひとまず、玄関先で立ち尽くしているわけにもいかないので、一つずつ中に運んだ後、適当に段ボールの箱を開けた。
服だった。ピンクの。
思わず閉めて、いくつかあるうちの一つの段ボールにちらと目をやった。その段ボールが、明らかに特別に見えたからだ。
真っ白な段ボールの箱に、無駄にリアルな真紅の薔薇が山ほど描かれている。そして、面積の広い側面に、イタリアのデザイナーをしている父と人のよさそうな母が、映画タイタニックの超有名なあのポーズを何故かベネチアのサンマルコ広場の中心でとっている。
写真を撮ってくれた心の広い親切な人に、今とてつもなくお礼が言いたい。ありがとう。
その白い段ボール箱を避けてもう一つ普通の段ボールを開けたが、また服が入っていたので、あきらめて例の段ボールの箱を開けた。
何が入っているのかと思いきや、どうやらイタリアの特産物だと思われる物の上に、たたんである手紙が置いてあった。
色々と複雑な気分で私は手紙を開けた。中にはこう書いてあった。
『ハーイ!くるくる&くるいちゃん、元気にしてる?私たちは今、イタリアを満喫しています。えへっ。
本当は、くるいちゃんも知ってる通り、この手紙と他の荷物が届いてると思うその日にお母さんは帰って来る予定だったんだけど、お父さんとの話し合いの結果、お母さんはもう少しこっちにいることにしました。
お金は十分渡してあるし、くるいちゃんなら一人でも大丈夫だってお母さんたちは信じてるから、大丈夫よ!きっと。
それじゃあ、たまには日本にちゃんと様子見に帰ってくるから、元気にしててね!
愛しの母と心配性の父より』
「……お母さん。」
えへって何!?お母さん、さらに若返ってるよ!いや、お母さん今でも見た目若いから不自然じゃないんだけど!
……何かもう、力尽きた。
自分の部屋に行くのも面倒くさくて、私はその場に座り込んだ。木製の床が、冷たくて気持ちがいい。
別に、母が帰ってこないのはかまわない。あの二人はお互いに愛しあってるのだから、一緒にいたいと思うのは当たり前だ。
そう思っても、なんとなく寂しく感じるのは、娘が寂しがっているんじゃないかと両親が心配してくれないから、ではない。
誰かにわざわざ話して聞かせるような事など無いに等しいこの日常の中の、何かが一つ抜けただけで、なぜこうも寂しく感じるのか。
座ったまま色々考えていると、縁側の障子が開く音が聞こえてきた。