ランドセルの神さま
助手席に首を突っ込んだ形になっていた女が、驚いて立ち上がりピラーに頭を打った。そしてまた、銃声に似た音が散発的に鳴った。津波の前のように、新宿が静かになり、やがて悲鳴が押し寄せてきた。その声は本能的に、青田の心を不安にさせた。それは危険信号以外の何物でもなかった。長身の青年が地下から飛び出して来て、交番の中に駆け込んだ。遅れて次々と、人間が溢れ出し、悲鳴を上げながら方々に散った。異変を知った交番の警官が、やっと駅に駆け込もうとして、擦れ違う中年の男に一瞬足を止めた。その理由はすぐに分かった。腹を押さえて走るその中年男の手が、血塗れだったからだ。クラクションがあちこちで鳴った。群衆が車道に飛び出したからだ。片足から血を流すサラリーマン風の男が、上司のように見えるスーツの男の肩に担がれて現れた。そしてまた、銃声が鳴った。地下鉄サリン事件のような、何かとんでもない事が起きていると直感的に思った。パトカーと救急車が何台も入り交じったサイレンが、確実に近付いて来る。息を切らした肥満児の小学生が、人の流れに逆らって、無秩序になった横断歩道に進入して来た。肉を揺らして不格好に走る肥満児の体は、不自然な程器用に人混みを擦り抜けて行く。交差点の真ん中で立ち止まった肥満児は、ぷるんとほっぺたを振って何かを見た。その視線の先を見ると、中年の男が歩道に踞っていた。血塗れで腹を押さえていた男だ。肥満児は男に向かって一直線に駆け寄り、古びた黒いランドセルを窮屈そうに外した。男は何かを言おうとして口を開き、轢かれた蛙のような形になったまま、動かなくなった。肥満児がいつの間にか開いたノートに何かを書き込んでいる。まるで、死ぬ瞬間の人間をデッサンしているような子供の表情から、恐怖や不安は読み取る事が出来ない。ドライアイスの煙に囲まれている。何故かそんなイメージが頭に浮かんだ。これもドラッグの後遺症だろうか。青田は目の前の異様な光景も実は幻想なのではないかと考えてみた。だとしたら、いつからが幻想だろうか。銃声からか、子供を轢いた所からか。
「ペペロンチーノ」
まだ助手席の横にいた女が、変な事を言った。その声に女の方を見ると、彼女も青田と同様に、肥満児の方を見ている。青田はまた、視線を歩道の先に移した。顔の肉を歪めてランドセルを背負い直した肥満児が急に興味を無くしたような動作で回れ右をする。血塗れの男を介抱しに来たように見えたジーパンの男が、一瞬肥満児を追おうとして、やめる。
「ペペロンチーノ」
どこまでが夢なのか分からない。女はまた卑猥な言葉を呟いた。青田の頭に浮かんだのは、ドライアイスの向こうからやって来るこの女だ。エプロンを着けてはいるものの、それ以外は全裸になっている女は、舌の先で唇をぺろんぺろんと舐めながら近付いて来る。
「ちょっとここで待っててください」
女は一旦舌の動きを止め、真顔でそう言った。青田は取りあえず、女の言う事に従う事にした。
8
京王線新宿駅の改札をくぐって地下通路を東口に向かうと、擦れ違う人々の中から稀に好奇の視線を感じる。やはりテレビに出たからだろうか。ザキは普段よりも背筋を伸ばして、すっかり通い慣れた通路を進む。ラッシュ前のこの時間の活気が、夜の歌舞伎町の活気とほぼ比例している関係に、最近になって気が付いた。
午後二時四十五分。時計を見なくても、今の時間が分かる。JRの地下改札の前を通り過ぎて、東口の交番脇に出る階段を上る。地下の活気はそれほどでもなかったけれど問題ない。この数日はテレビに出た効果で連日満員御礼札止状態だ。ザキはまた、何時か持つ自分の店を想像してしまう。このまま地上に出る階段を上りきると、時刻は丁度二時四十八分だ。そこから店までは五分。毎日二時五十三分に、ザキは店の鍵を開ける。
階段を上る。視界が少しだけ明るくなって、地下と地上の音が混ざり合う瞬間の新宿を、ザキは愛していた。交番前で待ち合わせをする若者達の頭が見えて来た所で、小学生の集団が一斉に駆け下りて来た。その内の一人が、ザキの膝にぶつかり、驚いたような顔を向けた。この子供もワイドショーを見たのだろうかとザキは思い、すぐに、ただぶつかった事に吃驚しただけだろうと、自意識過剰を恥じた。ごめんと詫びると、小学生は舌打ちして走り去った。
アルタ前のスクランブル交差点は、丁度青信号に変わったばかりだ。そんな時は何だか少し得をした気分になる。風俗求人サイトの広告がラッピングされたトラックが、大音量で惹句とサイト名を連呼しながらゆっくりと遠離って行く。ホストクラブの巨大広告看板の脇を通って、通称スカウト通りに入た所で、銃声が聞こえた。DVDショップの前を過ぎ、また銃声が聞こえた時、アルタの巨大モニターでハリウッド映画か何かの予告編が流れているのだろうと思った。休みの日が合えば、紗英とまた映画を見たい。正面から小学生が近付いて来た。最後に彼女と映画館に行ったのは、どのぐらい前だろう。小学生が通り過ぎる。肥満児だ。擦れ違う肥満児を目で追い振り返ったザキは、息を呑んだ。
新宿が止まっている。
また銃声が聞こえた。誰もが静止して、異変に耳を澄ませる小動物のように立ち尽くしている。ザキは歩き出した。歩を進める内に、ジーパンと腿の間に嫌な汗を掻いた。早足で歩くザキの前で、肥満児のランドセルが揺れている。クラクションが煩い。止まっていた世界は急に動き出し、無秩序になった交差点はあっという間に人で溢れた。人波に逆らって、交差点を渡る。目の前のランドセルがふっと消えた。突然しゃがみ込んだ肥満児にぶつかりそうになり慌てて避けると、新宿駅の地下から人波が溢れ出て来るのが見えた。目の前のアスファルトには転々と血のような跡が付いていて、それは足下に倒れた男の腹の下に出来た赤い水たまりまで続いている。肥満児は男を介抱するでもなく、変わった形のペンを手に呼吸の薄くなった男の顔を見ている。もっと他の事を考えるべき状況なのに、ザキは小学生の持つペンから目が離せなくなった。何かを思い出せそうで思い出せなかったもやもやした感じ。子供の時に親戚のお兄ちゃんが持っていた。そう、ロケットペンシル。思い出せたのに、何故かまだ、もやもやが消えない。ロケットペンシルの先の黒鉛が、ノートに〈済〉の文字を書き込んだ。その瞬間、何かがこの場所から無くなったような気がした。気が付くと、街は悲鳴に溢れていた。駅から一方通行で大量の人が吐き出され、中には血を流している人もいる。急に興味を無くしたようにむくりと立ち上がって、駅とは反対方向に去ろうとする肥満児を呼び止めようとして、ザキはその理由が何も無い事に気付いた。目の前の男は俯せのまま、動かなくなった。だいじょうぶですか。自分ではない誰かが男の肩を触って、言った。それを見下ろす形になったザキは、まるで自分がこの人を傷付けたように感じて怖くなった。すいません、あなたこどもみえてましたよね。また誰か、別の口が言った。顔を上げると、声から想像した通り、それは女性だった。
「子供って」ザキは真剣に答えた。話し相手がいないと、パニックを起こしそうだった。「さっきの太った男の子の事ですか?」
「そうです。見えましたか?」