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ランドセルの神さま

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 英語が堪能だった咲子は撮影経験三本目という異例の速さで、香港出身のカメラマンがスタッフィングされた映画のメインスクリプターとして一本立ちした。その映画は咲子が第一志望にしていた映画会社の製作で、どちらかと言えば規模の大きい現場だったが、プロの通訳を呼ぶ予算は無かった。都合で呼ばれた咲子だったが、彼女は海外のスタッフが驚く程の適切さで、現場をこなして行った。どこまでを許容範囲にするか。細かすぎても現場の進行を止めてしまう。大雑把すぎても駄目だ。何よりも生み出されつつある映画の完成度を考えて、咲子は慎重に仕事を進めた。その映画がクランクアップもしない内に、次の仕事の指名が入った。
 順調にキャリアを積み重ねていった咲子に、その事件が起きたのは、二ヶ月前。北関東の廃校で、不良少年達の乱闘シーンを撮影している時だ。特に台本に台詞がある訳でもなく、大人数の入り乱れるシーンにスクリプターの出番はあまりない。気持ちの中のほんの少しだけ一人の映画ファンに戻って、モニター脇から芝居を見詰めた咲子は、自分の目を疑った。高校生の中に混ざって、小学生が走り回っている。三回目を通せば、殆ど暗記してしまう台本。この作品に小学生なんて、出て来ただろうか。もしかすると、最近の子役ブームにあやかって、台本が差し込まれたのかもしれない。そうでもなければ、フレームのセンターで主役と並走しているのに誰も撮影を止めないこの状況の説明がつかない。カット! オッケー。監督がメガホン越しに声を張り上げ、次の指示を出す。
「今んとこ、ヨリ撮っとこ」
 助監督が、寄りまーすと復唱し、撮影助手に担がれたカメラが、被写体に近付いていく。セッティングの間に、撮ったばかりの引きの映像を思い浮かべた。その像はかなり正確で、咲子はそれを一時停止する事も、早送りする事も出来る。とは言え、俳優のテンションが上がりきった乱闘シーンで、全く同じアクションを再現するのは不可能だ。このシーンはカットも速い。余程の事がなければ、問題ないだろう。
 スタートが掛かり、カチンコが鳴る。現場は緊張感で張り詰め、俳優の躍動を見守る。俳優がドロップキックを放ち、受け手が大袈裟に吹っ飛ぶ。監督のカットの声とほぼ同時に、咲子は言った。
「すいません、つながってません」
 監督が不機嫌そうに振り返る。その場にいたスタッフ全員が、監督の放つ言葉を想像する。つながりなんてどうだっていいんだよ。
「抜けの小学生がさっきとつながってません」
 疑問符になった顔が、咲子を中心に並んだ。
「小学生? 石川ちゃん何言ってんの?」
 ファインダーから目を離したカメラマンが、呆れ顔で振り返った。
「こんなシーンに小学生なんている訳ないじゃん」
 ベテランの照明技師が、鬼の首を取ったように言って、満足そうに笑った。
 そんな事は分かっている。こんな所に小学生がいる訳がない。じゃああそこで、俳優達に混じって倒れた相手役を覗き込んでいる、あの小学生は何だと言うのだ。血。
「たいへんです!」
 咲子は俳優達を指差して声を上げた。
「血が出てます。誰か! 救急車!」
 若い助監督や照明助手の後に付いて倒れた相手役を覗き込む。転がってきた金属バットに、偶然後頭部を打ったのだろう、血糊とは違う本物の血液が、バットの一番太い所に、べっとりと付着している。こんな時、頭を持ち上げた方がいいのか、動かさない方がいいのか、まるで分からない。目を逸らすと、罫線の入った大学ノートに〈脳挫傷〉の文字が見える。
 武田大和 十九歳 脳挫傷
 昔からあるデザインのオーソドックスなボールペンを握った子供の手が伸びてきて、下の余白に〈済〉という一文字が書き足された。咲子はすっと目線を上げ、小学生の顔を見た。子供の薄い唇が、〈なんや〉という形に動くのが分かった。ランドセルを揺らして校庭を逃げて行く小学生を、咲子は追わなかった。遠くに救急車のサイレンを聞きながら、彼女はその時はっきりと思い出していた。ドライアイスを幻想的な照明が照らす、死後の世界を。

「勝手に見るなボケっ」
 銃殺。十六歳。小学生の数。自分の考えが正しければ、大変な事が起ころうとしている。
「駅で何があるの?」
「知らんちゅうてるやろ、放せっ」
 このままこの子を止めておいたら、この小さな死神を行かせなければ、十六歳の女の子は助かるだろうか。
「行っちゃ駄目」咲子は子供を掴む手に力を込めた。
「は? お前なんなんなんやっ、俺は行かなあかんねん。そんなんしても意味ないちゅうねん」
 瞬間、指の間でしっかりと掴んでいた肉の感触が消えた。アスファルトに落としたノートを、小さな手が引ったくる。国産の青い運動靴が、さっとバックステップして彼女との距離を取る。小学生はほんの一秒程度だけ咲子の方を見て、しかめっ面と笑顔の丁度中間のような顔を残像に残したまま、タクシーに跳ね飛ばされた。
 小学生はランドセルの背中を地面に付ける度に、小さくバウンドしながら歪に三回横回転して、何事も無いように立ち上がると、運転手を睨んで、けっと息を吐いた。硝子越しの運転手は蒼白になり、目と口を開ききっている。ランドセルの遠心力を使ってくるりと後ろ向きになり、前傾姿勢で人混みを擦り抜けて行く。その姿を、彼は見ている。
 石川咲子は立ち上がり、真っ直ぐに運転手を見た。小刻みに動いて子供の背中を追っていた彼の眼球が、やがて諦めたように動きを止める。咲子は確信していた。あの人には、子供が見えている。


 終わった。
 左のバンパーに引っ掛けた子供が、勢い良く転がって行く。空白になった青田純也の頭に最初に浮かんだのは、〈終〉の一文字だ。こんな新宿のど真ん中で子供を轢いて誤摩化せる筈が無い。どんな都合の良い言い訳を考えた所で、ここは目撃者だらけだ、防犯カメラやライブカメラだって何台もあるだろう。逃げられない。例え俯せの形で止まった小学生がいきなり立ち上がり、悪態をついて走り去ったとしても。
 青田は暫くの間、ただ茫然と新宿駅を見ていた。東口には交番があり、入口の前に若い警官が立っている。
 あなたいまこどもひきましたね。
 助手席に焦点を合わせると、女が居た。母親には見えない。真面目そうな女だ。化粧は薄く、髪も黒い。イメチェンする機会を逃して二十代になった優等生アイドルような、清潔感がある。社会の悪を糾す人に相応しい顔だと、青田は人ごとのように思った。
「あなた、今轢いた子供、見えてましたよね」
 サイドブレーキを引いて、エンジンを切った。上司から常日頃、事故を起こしたら最優先で会社に連絡をするように指導されている。
「すいません」
 何に対して詫びているのか自分でも意味が不明だ。青田は上着のポケットから携帯電話を取り出しながら、もう一度すいませんと呟いた。
「見てましたよね」
「ちょっとすいません」
 携帯電話を耳に充てながら、青田は女の質問が少しおかしい事に気が付いた。事故を見ていたのは、女の方だ。左耳に密着させた電話から、呼び出し音が鳴る。はいスター交通です。嗄れた老人の声が震わせた方とは反対の耳に、銃声に似た音が連続的に聞こえた。
作品名:ランドセルの神さま 作家名:新宿鮭