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ランドセルの神さま

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 広尾の日赤病院の近くで拾った中距離の客を、新宿のアルタ前で降ろした。初老のサラリーマンが背広の内ポケットから長財布を出すと、微かに加齢臭がした。レシートと釣り銭を渡す時になって初めて、その男が学校帰りの子供連れだと気付いた。普段から客と目を合わせず、子供に免疫もない青田は、事務的に頭を下げ、後部ドアーの開閉レバーを引いた。窓の向こうは、新宿駅東口とアルタを挟むスクランブル交差点だ。ミュージシャンだった頃、東口の広場でゲリラライブをやった事を思い出す。ギターにシールドを突っ込み、ドラマーのカウントを待つ。一曲目のイントロリフを掻き鳴らした時には既に、道路にまで食み出したギャラリーの向こうに、警察帽の頭が幾つも見えていた。ライブは二曲目の途中で強制的に中断された。その事が翌日のワイドショーに取り上げられた。青田にはそれが、いい記憶なのか悪い記憶なのか分からない。
 元気に車を飛び出した小学生が、立ち止まってレシートを仕舞う男を追い越し、駅に向かって走って行く。8の字を描いて揺れるランドセルには、交通安全と書かれた黄色い反射カバーが付いている。財布を仕舞い終えた男が、青田の方に顔を向けた。驚いたのはその男の顔を見たからではない。男が点滅し始めた信号を渡り、小学生とは逆方向、アルタ方向に歩き始めたからだ。白髪の目立つ七三頭が、しゃんと背筋を伸ばして目の前を通り過ぎて行く。それと擦れ違うように、数人の小学生が大人達を掻き分けて一斉に向かって来た。東口広場の前を通り過ぎ、地下へ向かう階段口に消えて行く。フラッシュバック。そんな言葉が頭に浮かんだ。目を閉じて目頭を揉む。
 自分は多分、幸せの前借りをし過ぎたのだ。


 ねえ。ちょっと止まって。ねえ。独り言とは言えない程の声量で人混みの隙間に話しかけながら、腰を直角に屈め、横断歩道を小走りに渡る。ねえ、止まって。体の向きを小刻みに変え、よちよちと進む女の動きは異様で、変人に慣れた新宿の人でも、すっと距離を取って擦れ違って行く。その内の一人が横断歩道の真ん中辺りで立ち止まり、周囲をゆっくりと見回した。女の奇行を映画か何かの撮影かも知れないと思ったからだ。黒髪と大きな瞳は現代版の日本人形女のようで、見ようによっては、映画女優のようにも見えた。
「待ちなさい」
 石川咲子は横断歩道を渡り終わった所で、やっと一人、小学生を捕まえた。ランドセルのストラップをがっしりと掴む。
「なんやねん自分。気色悪い、放せ」
 咲子は横から抱きかかえるようにして、小学生の体を制圧した。小さな肩に胸を押し付けると、小学生の顔がぽっと赤らむのが分かった。
「どうなってるの、これ。駅で何かあるの?」
「知るかそんなもん」
「だって、何なのこの人数」
「知らんわ。モー娘でも来てるんちゃうか」
 小学生の口からモー娘という単語が出て来て、咲子は一瞬で計算した。モーニング娘の全盛期は確か2000年頃だ。その頃に小学校中学年ぐらいだとすると、きっと彼は二十歳前の青年だろう。今年二十六歳になる咲子より、少し下の世代だ。
「止められないの?」
 幼い顔が僅かに緊張し、喉仏のない首が息を呑む。
「止めるって何を」
 口笛を吹く形に唇を突き出しそっぽを向く小学生の両肩を掴み、咲子はその顔を覗き込んだ。
「知ってるのに知らない振りしてるでしょ」
「なんやお前、何で見えんねん。何で触れるねん。先生か?」
 子供は質問には答えず、咲子も子供の質問には答えない。先生か? という言葉から、彼がまだ精神的に幼い事が分かる。畏怖する大人の代表が、学校の先生。学生時代、つまりつい一昨年まで教職課程を取っていた彼女は、あながち間違ってはいないけれど、と言葉を思い浮かべたけれど、そんな言葉を言うより速く、小学生を裏返しにしてランドセルの金具を外した。小学生達は色々なノートと文具を持っているけれど、彼が使っているのはキャンパスノートと洒落たカンのペンケースだ。
「お前何すんねんっ」
 いやいやをするように体をくねらせる子供を左腕で制し、右手だけでノートを開く。武井秀明 五十七歳 轢死 済 日高むつみ 十八歳 薬物中毒死 済 麻生光秋 四十二歳 刺殺 済 久島浩 五十四歳 絞殺 済 
 人名と年齢と済という印が、子供っぽい崩れた筆跡で書き連なっている。彼女の記憶が正しければ、現代の日本で最多の死因は悪性新生物つまり癌だ。心臓疾患や脳血管疾患が後に続き、不慮の事故や自殺はその後のランクだ。ここに書かれている死因は、特殊なものばかりだ。頁を捲る。ノートの最後に書かれた名前は、安藤このみ 十六歳 銃殺。済の印は、まだ無い。
 石川咲子は戦慄して新宿駅の方を見た。

 小学生と死亡事件。咲子がこの関係に気付いたのは、二ヶ月前。映画の撮影現場だった。
 咲子は映画のスクリプターだ。学生時代から映画が好きで、洋画の配給会社を目標に就職活動をしたけれど、全て三次面接で落選した。いつだってそうだった。面接に落ちる度、咲子は過去を振り返り、指を折った。自分は最後の最後で、押しが弱いのだ。ハードルの選手だった中学時代も、都大会の決勝で僅差の二着だった。期待されて挑んだ高校生最後の都大会は、前日に事故に遭って棄権した。大学だって第二志望にしか受からなかった。付き合う男もいつだって、その時二番目に好きな男だった。でもいい。結局は二番目が隠れた大当たりなのだ。ハワイ旅行よりも、商品券十万円分。小学生の頃、商店街の福引きで二等を引いた時、母はそう言って小躍りした。だからきっと、二番目になりたかったこの仕事は、大当たりの筈だ。
 実際スクリプターの仕事は、咲子にとって天職の一つと言えた。記憶力と語学力に長けた咲子は一文字もメモを取る事なく、的確にシーンを記憶した。台詞の言い回し、俳優の髪の形、腕の高さ、肘の角度、釦の掛け方、袖の捲り方、背景の小道具の配置、フォーカスの位置、風はどちらから吹いていたか。
 すいません、つながってません。独り言ぐらいのボリュームで遠慮がちに指摘する撮影見習い初日の咲子に、デジカメと筆記具で武装した先輩スクリプターは目を吊り上げた。つながっていない筈がない。衣裳も髪も体勢も。きっとその内この子は頸になるだろう。しかしその映画の編集時に、先輩スクリプターは咲子の凄まじさを知った。殆どの人は気付かないだろうが、ほんの少し、例えば台詞とアクションのタイミングがずれていたり、エキストラが通り過ぎるタイミングがずれていたり、スクリプターのミスとは言えない程度の範囲ではあるけれど、確かに素材はつながっていなかった。
作品名:ランドセルの神さま 作家名:新宿鮭