ランドセルの神さま
二人乗りのスクーターが、路肩をすり抜けて行く。バックシートの若者は、フェンダーのギターケースを背負っている。大粒の雨が一つ、フロントガラスで爆ぜた。雨を嫌ってスピードを上げる若者達の残像に目を細め、青田は大きく溜息を吐く。青春という恥ずかしい単語が、青田の頭に浮かぶ。彼は五センチだけ窓を開け、少し熱を持った耳たぶを冷やす。
期待通りに雨は降り出し、瞬く間にアスファルトを黒く濡らした。原宿の手前で拾った男はポスターの原稿でも入っていそうな大型のプラスチック鞄をハンカチで拭き終わった後、いやあ最悪っすね、と言ってルームミラーの中の青田を見た。
「こんな雨降るなんて天気予報で言ってましたっけ」
「ああ、どうでしょう」
青田は曖昧に応え、ルームミラー越しに作り笑いを浮かべる。
「普段は空車だらけで鬱陶しいくらいなのに、雨が降った途端に全然捕まんなくなるんすから。もうべちゃべちゃっすよ」
自分の体よりも鞄の中身の方が大切だったのか、客はやっと自分の頭を拭い始めた。鬱陶しいのはお前の方だと言いたい気持ちを我慢しつつも、青田は彼の気持ちも分からないでもないと思った。この不景気で、都内のタクシーの数は、需要を大きく上回っている。会社を潰したりリストラされたりして、タクシーの運転手にしかなれない中年が、ひっきりなしに面接に来る。客の方は客の方で、雨の日と師走ぐらいしかタクシーを使わない。
愛想のない運転手に飽きた客が、携帯電話で誰かと話し始めた。聞こえてくる会話の内容から、彼が広告代理店の営業マンか何かで、二千万円代の仕事を受注したことが分かる。
青田の脳裏に、二人乗りのバイクが浮かぶ。赤ん坊は赤ん坊でしかない。小学生は小学生で、学力のレベルに優劣はあるものの、大人の目から見たら高校生は高校生、大学生は大学生だ。なのに、社会に出て夢を諦めた途端、自分はタクシーの運転手にしかなれず、後ろの客は広告代理店のサラリーマンになって二千万の金を動かし、奴はアルバムを三十万枚売るミュージシャンになった。
左折レーンに入ろうとバックミラーに目をやった時、乗務員証に貼り付けられた自分の写真が視界に入った。顎は弛み、目は腫れぼったい。精気のない三十五歳の男。ギターケースを背負ったDAIJIを後ろに乗せて、ちっぽけな地方都市を走った過去は、青田にとってもうずっと遠いことのように思えた。いつ記憶から消えてなくなっても、おかしくないくらいに。
気まぐれに移り変わって、はっきりしない天気のせいだろう。東銀座でサラリーマンを降ろしてからは、午前中のヒキの悪さが嘘のように、中距離の客を連続して拾った。空が暗くなる頃には、青田は何とか平均まで売り上げを伸ばすことが出来た。その女を拾ったのは、このまま時間調整しながら営業所に戻ろうとして通った山手通りの裏道だった。
普通の女じゃないな。手を挙げた女を見た瞬間、青田はそう思った。大金持ちのお嬢さんか、芸能人、或いはヤクザの情婦。ウエイブのかかった長い髪。光沢のある柔らかな素材で出来た赤紫のワンピース。片手にぶら下げているバッグはどこの物かは分からないけれど、高級ブランドの逸品であると確信出来た。特別なのは、ファッションだけではない。一分の隙もない色白の貌。子供の頃に観たSFアニメのヒロインのような、しなやかな体付き。かなり余裕を持ってブレーキングしたつもりなのに、青田の車は女を二メートルほど過ぎてから、タイヤの回転を止めた。
「中目黒の駅前まで」
女は柔らかそうな髪をかきあげながら、召使いにでも言うように行き先を告げた。近距離だけれど、まあいい。どのみち今日はもう終わりだ。女への好奇心を断ち切るようにメーターを倒し、青田は山手通りに合流した。老舗のラーメン屋に行列が出来ている。それを見て初めて、青田は雨が上がっている事に気付き、無意味な往復運動を続けていたワイパーを止めた。いつの間に。女を乗せた時には既に止んでいたのか。彼女が傘をさしていたかどうか、思い出せない。足下に傘があるかどうか。息を呑んだ。ルームミラーに視線を送ったその顔を、射るように女が見ている。
「すいません、もしかして」
前を走る商用車との車間距離が近い。青田は軽くブレーキペダルを踏んで、再びルームミラーの中の女を見た。
「メサイヤの純也、さん、ですよね」
顔の皮膚が熱くなって舌の根元が渇いた。目を逸らして数秒経ってから、青田は自分が赤面していると気付いた。返答に困っているこんな時に限って、前の車が黄色信号で停止する。
「やばいっ、思いっきり私の青春なんですけど。CD全部持ってます」
「ああ、ありがとうございます」
座席の間から身を乗り出した女の顔を、対向車のヘッドライトが照らす。長い睫毛。アーモンド型の瞳。
「もう音楽やめちゃったんですか?」
女は無遠慮に聞き、好奇心に目を輝かせる。青田は気付かれないように唾を呑む。
「仕事がある時だけ。暇な時はタクシーです」
「そうなんですか」
女は喜んでいるのか落胆しているのかどちらとも付かない顔で頷き、髪を数回弄った後、こういう話って迷惑ですかと眉尻を下げた。
「いや、まあ、いいですよ別に」
「ほんとですか? 今日はラッキーだなあ。星占い最悪だったのに、ああいうのって当たらないもんですね。再結成とか予定ないんですか?」
「いまんとこ、ないっすね……」
信号が青に変わり、ギアレバーを操作する動きの中で、青田は少しだけ窓を開けた。音楽などもう何年もやっていない。チューニングが狂ったままのギターは、部屋の隅で埃を被っていて、触る気にもならない。再結成なんて、永遠にあり得ない話だ。俺はもう、タクシードライバー以外の何者でもないのだから。
90年代のバンドブーム。その一翼を担ったビジュアル系グラムロックバンド〈メサイヤ〉は、北関東の地方都市で高校の同級生だったDAIJIと青田、同じく同級生だったベースとドラムの替わりにプロを二人宛てがわれて出来た。全ての楽曲の作詞と作曲をして、各パートのアレンジも組み立てるDAIJIがソロデビューではなく、フォーピースバンドとして世に出た理由は、ただその当時、そういったバンドが流行っていたからで、その方が売れるとレコード会社が考えた、ただそれだけの事だ。才能と言う目に見えない筈のものは、世界を知れば知る程青田の目の前で光を放ち、自分自身にそれが無いと気付いていくのに逆行して、メサイヤは爆発的に売れて行った。アルコールや大麻やもう少し強いドラッグを覚えて、毎日のように違う女を抱いた。