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ランドセルの神さま

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 紗英は何かを言ったけれど、その声は声にならない。だがザキはその唇が、自分の無事を伝えようとしているとすぐに分かった。スカートの裾が乱れていて擦り剥いた膝小僧に血が滲んでいる。
「大丈夫かっ」
 紗英は小刻みに何度も、首を縦に振った。ザキは事故車を振り返った。萎んだエアバッグに顔を埋めて、初老の女性が失神している。ドアを開け声を掛けるが、彼女はハンドルを握り締めたまま動かない。目立った外傷はなく、細いながらも息はある。助手席にも後部座席にも同乗者はいない。ザキは血の気を失った皺だらけの指を一本ずつ引き剥がし、彼女を抱え出した。
「救急車っ」
 既に携帯電話を耳に充てている紗英は、また小刻みに頷いた。


「テレビってすごいね」
 仲間さんはにやけ顔でそう言って、擦れ違いざまにザキの尻を叩いた。もう何時間も前から店は満席で、エレベーターホールには、入りきれない客が十人以上も溢れている。
〈ペペロンチーノが人助けしてるなう〉
 通勤時間の駅前で起こった交通事故は、野次馬の携帯電話で実況され、午後には大手ポータルサイトのヘッドラインニュースに並んだ。疎遠になっていた芸人仲間から次々と電話が掛かって来て、それが一段落すると、テレビ局からの取材依頼が押し寄せて来た。ザキは丁寧に、その全てを断ったが、出勤する彼を数台のテレビカメラが待ち受けていた。
「すごいですね、テレビは」
 ザキは仲間さんとは別の意味で、テレビ屋の力を実感していた。タレント名鑑に名前も乗っていない消えた芸人を、ほんの数時間の間に見付け出し、数字の取れるコメントを拾う。十一時前という中途半端な時間になっても客足が落ちないのは、夜のニュースショーで自分の話題が放送されたからかも知れない。
「事故当時の様子を教えて下さい」
「いやぁ目の前に車が突っ込んで来た。ただそれだけしか覚えてないです。後は無我夢中で」
「お今のお気持ちを一言」
「ドライバーの女性も大した怪我じゃなかったみたいだし、犠牲者もいなくて良かったです」
「今日の晩ご飯は何を食べますか?」
「……ナポリタンです」
 取材を受けながらザキが思ったのは、一体どれだけの視聴者が自分の顔をみるのかという事だった。テレビにはもう未練はないと信じて来たのに、カメラの前に立てば、視聴率を気にしてしまう。そんな自分の潜在意識に、ザキは驚きすら感じた。ナポリタンは、茶の間に受けただろうか。やはりあそこは、ペペロンチーノと言うべきだっただろうか。
 厨房で調理補助をしているアルバイトの大学生が、こうなったらカムバックしちゃえばいいじゃないっすか、と戯けて言った。
「無理無理」
 料理を受け取ったザキは、混雑したホールを半身で進みながら、続く言葉を頭の中で呟く。俺には向いてない世界なんだよ。何回やっても結果は同じなんだ。

 売り上げはザキの知る限りで、過去最高を記録した。二三日もすれば、こんな狂乱は収まるに決まっているとは思いつつも、収益の増加は、いつか自分の店を持たせてもらうという目標に近付く気がして、胸が騒ぐ。
 仲間さんの誘いを断って、ザキが新宿駅へと向かったのは、紗英の様子が気になったからだ。膝の擦り傷は化膿していないだろうか。彼女は、自分の出たニュースについて、何を言ってくれるだろうか。店の入ったビルを出て携帯電話を開くと、着信が十件以上入っていた。殆どが芸人仲間のものだったが、その中に母親からの履歴があった。ザキは少し微笑んで携帯を閉じた。
 始発電車に乗ろうと駅に向かう人並みは、その殆どがついさっきまで酒を飲んでいた酔っぱらいか、酒を売っていた同業者だ。ザキは祭りが終わった直後のような早朝の歌舞伎町が大好きだった。妙に間が抜けていて、何故か愛おしい人々が、ふらふらと行進して行く。道端に座り込む女がいて、その女を連れて帰ろうと下心丸出しで介抱する男がいる。前方からドスの利いた怒号が聞こえ、片目を腫らしたホスト風の男が逆走してきた。酔っぱらいと同業者の列は蹴散らされ、男の荒い息遣いが、ドップラー効果を起こして通り過ぎて行く。男を追っているのは、ベルサーチ風の派手なジャージを着た三人組のやくざだ。よくある事とまでは言えないけれど、こんな光景を目にするのは、ザキにとって然程珍しい事ではない。なのに、家に帰って紗英と話し、長かった一日を振り返った後、先輩芸人の何人かに折り返しの電話を掛け、布団の中に潜り込んでからもその光景が頭から離れなかったのは、追われるホスト風の男のすぐ後ろを、息も切らさず無表情で付いて行く、小学生の姿を見たからだ。コントに出てくる新聞記者のように、左手にノート、右手に鉛筆を持った学童服の小学生が、大人の全力疾走にぴったりと追走する姿。
 あの子は一体何だったんだろう。
 その日を境に、ザキは盛り場で子供の姿を見かけるようになった。東京は常に少しずつ変化していて、今では携帯電話を持っている小学生も珍しくはない。ザキは子供が望んでする事ならば、髪を染めてもピアスをしても、それが時代だと割り切れる。ただ、子供が深夜に徘徊するのには、抵抗があった。なぜ警察は彼らを補導しないのか。親は何をしているのか。何か悪い事が起こらなければいいけれど。
 勇気を出して声を掛けようと足を踏み出すといつも、子供はどこかに消えてしまうのだ。危険を感じた野良猫みたいなスピードで。


 きつねどん兵衛の余り汁をスープ代わりにして、昆布の入ったお握りを胃袋に流し込む。百円玉三つでお釣りの来る昼食を終えた青田純也は、運転席のドアを開け、化学調味料の味がする痰を吐いた。
 分厚い雲。風が生暖かい。雨が降ればいいのに、と青田は思う。コンビニのゴミ箱に昼食の残骸を突っ込み、勝手知ったる店内のトイレで小便を済ませる。車に凭れて一本だけ煙草を吸い、運転席に戻って五分だけ目を閉じる。安物のデジタル腕時計がピッと電子音を鳴らして午後一時を告げ、青田はゆっくりと目を開ける。溜息を吐きながらサイドブレーキを下ろし、右のバックミラーに視線を移す。
 雨が降りそうで、降らない。中野坂上から青梅街道を新宿に向かう。赤信号に捕まる度に、左右も前後もタクシーに挟まれる。これだけライバルが多いんじゃ……。青田は半ば自棄になって、ラジオのスイッチを入れた。客なんか当分拾えそうもないな。
 諦めて右車線に入った青田のタクシーは、明治通りを右折して渋谷方面に頭を向けた。南の空にゆっくりと、黒煙のような雲が流れている。
 不意に、ラジオから奴の名前を聞く。
 毒にも薬にもならないような曲。語呂のいい単語をただ並べただけの歌詞。使い古された在り来たりのメロディー。DAIJIの歌を聴くと、青田はいつも、不快になる。なのに、左手がハンドルを離れる気配はない。ほんの数十センチ先に指先を伸ばしスイッチを押し込むだけで、その声を消し去ることが出来るのに。
作品名:ランドセルの神さま 作家名:新宿鮭