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ランドセルの神さま

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 子供の頃にテレビで観た音楽番組。男女二人組の司会者が慣れた口調で曲を紹介すると、ドライアイスが焚かれた別セットの映像に切り替わり、バックライトに照らされたアイドル歌手のシルエットが、イントロに合わせてポーズを決めている。目立ちたがり屋でお調子者だった子供時代のザキにとって、ブラウン管の向こう側は憧れの世界だった。それとよく似た幻想的な世界が今、目の前に果てしなく広がっている。
〈何でこんな所にいるんだろう〉
〈ああ、ここがあの世か〉
 二つの事を同時に考えた。足下のスモークを撫でてみると、ひんやりとした幽かな感触が、指の間を通り抜ける。薄紫に発光する煙。どこからかカットの声が掛かって、常夜灯が点る事を想像してみる。空を見上げて照明の光源を探すけれど、そこにはただ漆黒の闇が広がっているだけだ。
 そうだ、俺は死んだんだ。そう認めた途端、紗英の顔が頭に浮かんだ。彼女を救えて良かった。彼女を幸せに出来なかった。彼女に財産を残せなかった。彼女との子供を残せなかった。
 親より先に死んでしまった俺は、きっとこの闇の中で、何年も家族を待つのだろう。いつか紗英は、ここに来るだろうか。いや、来てはならない。彼女は俺なんかよりもっともっと立派で甲斐性のある男と一緒になって、その男と作る家族の元に行くべきだ。でも俺は果たして、それに耐えられるだろうか。嫉妬。孤独。ザキの心は、掻き毟りたい程の無念に支配された。死んだ後の世界でこれ程苦しむのなら、人間はいつ本当に〈無〉になれるのだろう。
 唐突に音楽が聞こえた。
 それは歌謡曲のイントロではなく、小学生の時に使っていた縦笛のような音色で、ザキはそのメロディーに聞き覚えがあった。
「あ、これ……」
 ゴジラのテーマだ。
 音の方向に目を細めると。小さな影がある。子供のようだ。奇妙な音楽に操られるように、ザキは影に近づいて行く。徐々に姿を現した笛の主はやはり小学生で、学童服に黄色い帽子、背中にはランドセルを背負っている。
 ピーッ
 ゴジラのテーマが唐突に不協和音の警告音に変わり、ザキは背中を竦めた。
「おいっ。お前っ」
 声変わり前の甲高い声。ザキは辺りを見回して言った。
「え? 俺?」
「俺? って、アホかお前。お前以外に誰がおんねん」
 確かに、三百六十度どう見ても、この空間には二人しか居ない。
「ま、確かに誰も居ないけど。どうしたの?」
「どうしたの? ってどんな質問やねん。お前俺が迷子か何かと思とんのか」
「違うの?」
「ちゃうわボケ!」小学生は唾を飛ばし、縦笛を振り回して、地団駄を踏んだ。「まあ、ええわ。お前はどこのどいつや。あ、言わんでええで、言わんでもちゃんとここに書いてあんねん」忙しなく肩から下ろしたランドセルから、昆虫の写真が表紙になったノートを取り出す。ジャポニカ学習帳だ。学童服のポケットから禿びた鉛筆を出し、それは両端が削られている。ザキは泥棒削りという単語を思い出し、今時あんな風に鉛筆を使う子供が居るのかと驚いた。小学生はノートのページを捲る。
「えーっと。山崎平太三十五歳か」鉛筆の先をぺろりと舐め、挑むようにザキを見る。「お前、リアクション薄いやっちゃな」再びノートに視線を落とし、「あー、なるほど。お前元芸能人か。自分の名前なんかみんなが知ってて当たり前ちゅう事やな、腹立つわ」
「はあ」
「はあ、ってなんやそのリアクション。そんな反応しか出来んから、中途半端にしか売れへんねんこの三流芸人が」
 死んでからも心が傷付く事を知り、力無く俯く。
「まあ……、確かにそうかも知れないけど。じゃあ、どういうリアクションがベストなの? あ、ベストって一番いいって」
「知っとるわ! お前っ俺がそれ聞いてチョッキと勘違いするとでも思とんのかコラっ。ベストもワーストもエクセレントも全部知っとるわボケ」
 小学生に睨め付けられ、享年三十五歳のザキは目を逸らした。昔から子供が苦手だった。
「ちっさいからってナメとったらあかんぞコラっ、お前なんかより俺の方が年上やねんからな」
「え?」
 自分にも近い親戚にも子供がいないザキには、平成世代の発育具合は分からないけれど、どう贔屓目に見ても、目の前のちびっ子は小五か小六だ。
「何か文句あるんか」
「いや、別に文句はないけど」
「文句はないけどなんやねん」
 絡みにくい。けれど調子を合わせるより仕方がない。
「ごめん」
 ませた子供でも、彼は今この世界を知る唯一の手掛かりなのだ。
「ま、ええわ。これから言う事よう聞けよ。時間がないねん。お前もここがどこか知りたいやろ」
「はい」ザキは素直に頷いた。
「ここは、ま、言うてみたら〈あの世〉ちゅうことになる。ただお前はここにずっとおる訳やない。ちゅうてもこの先には天国も地獄もない。輪廻転生もない。お前の意識はもう暫くしたらただ消えるだけ。その後は何も残らへん。がっかりか?」
「いや、安心した……」
「そうか」小学生は一呼吸の間、遠い目をした。「誰か神さんみたいなもんに教えてもろた訳やないから、俺にも何でかよう分からけど、感じんねん。この場所は生き物としての意識が消える前に許したり恨んだり願ったり後悔したり……、最後の最後にちょこっとだけ考え事をさせてもらえるちょっとしたスペースやねん。残った時間はあとほんの何分かや。ま、ボーナスタイムちゅう事やな。そしたら俺暫くあっち向いとるから、その間に考えたらええ。誰かを呪ったりしたら、ちょっとは効果あるみたいやで」小学生は腫瞼の目を細めて、にやりと笑った。「で、次に俺が振り返る時が、お前が消える時や」
 信じるしかなかった。ザキは一心不乱に祈った。
 紗英が幸せになりますように。お父さんお母さんが長生きしますように。無意識に手を合わせ、目をきつく閉じた。同じ祈りを口の中で何度も繰り返しながら、死んでからも涙が出ることを不思議に思った。
 小学生が振り向く気配を感じ、ザキは目を開いた。
 時間だ。
 涙で乱反射する子供の像は、ノートを鼻の高さで開いたまま、真っ直ぐにザキを見上げている。終わりだ。瞬きで視界の歪みが晴れるのと同時に、ザキははっと息を呑んだ。小学生の細い目がこれ以上ないという程見開かれていたからだ。
「お前っ……、盗っ人やないかっ」
「はい?」
「糞っ、汚い字で書きくさって、見落とす所やったわ」小学生は憤怒に顔を赤らめ、荒い鼻息を吐いた。「アホみたいや。無駄な時間使わせよってからにこのボケがぁ」
 呆気に取られ顎を下げたザキは、小学生の跳躍をただ漫然と見た。空中で上半身を捻った小さな体が、放物線を描いて降りてくる。
「帰れぇぇぇぇぇっ!」
 縦笛が側頭部に叩き込まれた瞬間、ザキはこの奇妙な体験の記憶を全て無くした。

「痛っ」
 頭を押さえながら目を開けると、光の粒が顔に降りかかって来た。もう一度ゆっくりと目を開けたザキは、そこで初めて、光の正体が砕けたフロントガラスだと分かった。アスファルトに尻餅をついた状態になっている自分の真横で、ノーズの真ん中を電柱に押し潰された軽自動車が、黒煙を上げている。
 助かった。そう心で呟くと同時に、ザキは立ち上がり、乗用車の反対側に走った。
「紗英っ」
作品名:ランドセルの神さま 作家名:新宿鮭