ランドセルの神さま
柔軟剤の香りのする洗い立てのシーツに包まって、ザキは石川さんの余命を計算した。多く見て、八年。三十三歳で死ぬ彼女の無念を想像すると、無意識に歯を食いしばっていた。彼女に連絡するべきだろうか。布団の中に潜り込んで、携帯を開く。待ち受けにしている我が子の写真と目が合った。ザキはその無垢な笑顔を暫くの間見詰めた後、石川咲子にメールを打った。
〈ひさしぶりです 元気ですか? ニュース見ました 何かできる事があったら言ってください〉
送信してしまってから、これじゃあまるで死神からのメールだと思った。乳臭い子供の匂いのする部屋で、ザキは反省しながら眠りに落ちた。
目を開けると、携帯電話のランプが点滅していた。目やにを落として起き上がり、同時にザキは手の中の携帯電話を開いた。石川さんの事を考えて眠ったから、石川さんの夢を見ているのかも知れないと思った。メールは石川さんからの物で、それは長い手紙だった。数通に分かれていて、件名に番号がふってある。
携帯の液晶の隅に表示された時計を見る。布団に入ってからまだ三時間しか経っていない。紗英が足音を殺して密やかに家事をしているのが、気配で分かる。ザキを起こさないように。
目が覚めた事を紗英に悟られないように、ザキはそっと体を起こした。セットの後ろから扇風機で風を当てたように、完璧な柔らかさでカーテンが揺れている。少しだけ尿意を感じていたけれど、ザキはそれを後回しにしてメールを読んだ。
青田様
山崎様
ご無沙汰して居ります。お元気でしょうか?
山崎さんは既にご存知のようですが、先日私の同級生で、作家の安藤弘美が亡くなりました。私が彼女を助けたのが七年前、自分の寿命の半分を彼女が生きたのであれば、私の寿命は当然七年後と言う事になります。
彼女の死を知って数日間はさすがに頭が真っ白になったり真っ黒になったりしましたが、自分でも意外なほどに、私はいまその事を受け入れています。私は充分幸せで、死んでしまいたいなんて少しも思っていないのにです。その日が目前に近付けば、もしかして取り乱す事があるかも知れません。ただ、いまは運命として、それを受け入れています。なので、お気遣いはいまの所ご無用です。
安藤弘美は七年間で、ベストセラーを出し有名人になりました。あの時私が彼女を救わず、ただコンクリートに落ちて行く彼女をただ見ていたら、世界的な作家は世に出る事もなく短い命を終えていたのです。こんな事を書くと、恩着せがましい女と思われるかも知れませんが、私は彼女の人生に幾らかの幸せを与えられた事を、少し誇らしく思ったりもするのです。自分のあげた七年間は無駄なものではなかったと。だって少なくとも彼女は、自殺によって亡くなった訳ではないのです。きっと彼女は、もっと生きたいと思っていた筈です。悲惨な殺され方をした最後の不幸はさておいて。私は少し混乱しているのでしょうか。そんな事はないと思います。いまの感覚を文章でお伝えするのは、難しいです。残された七年間という時間は、長いような短いような、つかみ所がない長さでいまの私にはまだイメージが湧きません。でもなぜか私はこの七年間で、何か特別な事が出来る気がしています。そしてその事が何なのか、もう私には分かっています。回りくどい書き方ですいません。驚かれるかも知れませんが、私は結婚をして子供を産むと思います。確信的にそう感じるのです。婚約者には、私が三十二歳で死ぬ事は伝えてあります。当然、彼は全く信じていませんが。身勝手だとは思います。ただ私はどうしても、彼の遺伝子を残したいのです。これは一番近い言葉で言えば、本能的な感覚で、私は彼の遺伝子を残す為に生まれて来たとさえ思うのです。
つい取り留めもなく長くなってしまってすいません。
私がその日にちゃんと死んだかどうか。もしお二人がそれを知りたいならば、連絡が行くように手配しておきます。また、私が死ぬ予定日をお知りになりたければ、併せてご希望をお伝え下さい。くれぐれもお気遣いなく。親しくない友人の結婚式の出欠を知らせるような、簡略なメールで結構です。
そこで、メールは終わっていた。
ザキは布団を被り、薄い闇の中で発光する液晶画面を貫くように見ていた。勘違いかも知れないけれど、石川さんの気持ちが完全に分かる気がした。日を追う毎に人生の密度が濃くなっている。息をする毎に海斗は成長し、自分は少しずつ死に近付いて行く。しかしそれは、それ程恐くはない。石川さんの言うように、これは運命なのだ。自分が命を分けた結果、紗英はこの世界に海斗を産み落とし、海斗の未来は、ずっと先の眩しい所にまで続いている。
座り小便で静かに尿を出し切って、そっと居間のドアを開けた。海斗は夢見るように眠り、安物のソファーの上では良く似た寝顔の紗英がゆっくりとした呼吸を繰り返している。
石川様
ザキはメールを打った。
僕は石川さんの予定日と結果を知りたいです
それ以上の事は何も書かずに、ザキは送信キーを押した。
18
新宿の小ガードの中を、青田は歩いていた。その天井の上を山手線が走っている。その音はトンネル状になったコンクリートの通路の中で反響し、怪物の腹の中で巨大な心音を聞いているようだ。トンネルの先が明るく開けた瞬間に人の群れが目の前に現れる。黒い頭の大群に混じって、金髪の青田はスクランブル交差点を渡った。青田は、ふと振り返った。数年前、刺された男が踞っていた広場の上では、待ち合わせの若者達がそれぞれの携帯電話を弄っている。
あれから、何もかもが変わってしまった。メサイヤの再結成と同時に、青田はタクシー会社を辞めた。ちょっとした移動でタクシーに乗る度に、運転手だった数年間がまるで夢の中の出来事だったように思えた。フロントシートの向こうでは、夢の住人がハンドルを握っている。彼らはあの時の自分と同じように、ある長い期間を夢の中で過ごしているのだ。タクシードライバーの夢を見ている彼らは、本当は学者だったり作家だったりミュージシャンだったりと別の職能を持っている。或は、一生自分の才能を知らないまま、タクシードライバーの夢の中で死ぬ。そんな事を考えるようになってから、タクシーには客としても乗らなくなった。また向こう側の世界に引き戻されるような気がして、恐くなるからだ。だから、最近になって引っ越して来た西新宿のマンションから二十分近くも歩いて、青田は歌舞伎町にある老舗のライブハウスに向かっている。また人に見られるようになって、弛んでいた体も幾らか引き締まって来た。ほんのたまにではあるけれど、青田をメサイヤの純也だと気付いた人が、立ち止まって振り返る。
戻って来た。
メサイヤが再結成した直後、青田の人生はスイッチを入れ替えたように元に戻った。ドームのチケットが殆ど売り切れ、中規模のホールでやる時は3デイズでも客が埋まった。いつの間にかデジタル放送になって画角の比率まで横長に変わったテレビの音楽番組に出て、金を払わずに女も抱いた。でもそんな状態は一年も続かなかった。