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ランドセルの神さま

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「じゃあ、各部良ければ本人でテストします」
 助監督がそう言って、トランシーバーで俳優を呼ぶ指示を出した。橋本伸吾は俳優が来るまでの間、ずっと咲子を見ていた。暫くの間放心していた咲子がやっと頷くと、彼は懐かしそうな顔で笑った。
 体中の血液が粟立ちながら心臓に向かって来て、また末端まで跳ね返された。一瞬で果てまで辿り着いたまた津波のように、心臓に飛び込んで来る。夢の中で撮影は進み、夢の中で咲子はそれを記録した。肉と魚の二種類だと言われた弁当の、魚の方を夢で食べ、隣に座った橋本伸吾と高校時代の思い出話のような内容の会話をした。夢の中でメールアドレスを交換し、マイクロバスに乗って次の現場に移動した。さっきまで土砂降りの雨を降らせていたのに、窓の外は乾いた景色が流れていった。赤と青のリボンを付けた二匹のシーズー犬を追い越す。レーサー仕様の自転車が近付いたり離れたりする。次の現場では主人公の稽古シーンを撮り、正拳中段突きを反復稽古するヒロインの視線の先、カメラに映らない場所に、鏡の動きをする橋本伸吾が見えた。また弁当を食べた。今度は肉を選んだ。マイクロバスに乗り、渋谷で解散した。夢の中で橋本伸吾は現場から直接帰ると言っていた。だから渋谷駅に橋本伸吾はいない。改札を潜り、電車のシートに腰掛けた時、やっと肩の力が抜けた。世界は正常に動いている。会社帰りのサラリーマンが自分の駅で慌てて飛び起き、閉まりかけのドアからぎりぎりの脱出に成功した。その空席に座った若い男は、ヘッドホンをして携帯ゲームを弄っている。夢のようだと思っていた事は、現実感の伴わない、現実だったようだ。なぜなら今、自分の手の中には携帯電話が開いていて、そこには橋本伸吾のメールアドレスが表示されているから。手の平に汗を掻く。咲子はまた鼓動が激しくなるのを感じた。体の中で、太鼓が鳴らされている。
 祭りだ。
 否定する要素は一つもなかった。咲子は完璧に、恋をしていた。

17
 ザキは半笑いの顔で泣いていた。前列ギターサイドのプラチナチケットは、純也から直接送って貰ったものだ。メサイヤの復活ライブ。隣で見ている紗英とは、記念すべきこの日の朝に籍を入れた。予定よりも少し早くそうしなければならなかった理由は、紗英に子供が出来たからだ。
 体表がふるふると震える。
 純也のギターソロが、二人をハート形に包んで揺らした。ザキは半笑いの泣き顔のまま、紗英の横顔を見た。視線に気付いた紗英が振り返り、幸せそうに微笑む。その顔には少しだけ母性が混じっていて、ザキは堪らない気持ちになった。彼女との時間を一秒でも無駄にしたくない。彼女は確実に自分より先に死に、自分は彼女のいない終わりを迎えなければならない。これからずっと彼女を守り、彼女が死にそうな時は何度も邪魔をして、寿命を分けなければならない。そして生まれて来る新しい命の事を考えれば、ザキは少しでも長く生きなければならない。矛盾する二つの義務は蜷局を巻いて、ザキの体に巻き付いている。
 ただ今日だけは。
 ザキはそういった事を全て忘れて音楽に包まれたいと思った。大丈夫。何とかなる。純也のトレモロを体で感じながら、ザキは紗英の小さくて温かい肩を抱く。
「なんか売名行為って言われてるみたいだけど」
 汗だくのDAIJIが気怠気に言うと会場が沸いた。
「ミュージシャンが売名しないでどうすんのっ」
 絶叫に近い歓声が会場を膨らませ、その声にアップテンポなイントロが重なる。
「忘れんなよっ、俺たちがメサイヤだっ」
 ザキは口から赤い魂を吐き出すように、全力でイエーッと叫んだ。これ以上出せない大声を出したのに、自分の声が自分の耳に聞こえなかった。

 結婚式は出来なかったけれど、店の仲間と芸人仲間、紗英の友人を呼んでパーティーを開いた。売れっ子の先輩達や後輩達もやって来て、ザキと紗英を涙が出るほど笑わせた。ザキはその日、もう自分より面白い芸人に対して、嫉妬していない事に気が付いた。自分はもう、別の道を歩いているのだと。
 青空に入道雲が湧いて行く、あるいは向日葵の花が太陽に向かって首を振る、そんな映像を時間を縮めて再生したようなスピードで、ザキの人生は大きく動いていた。
 働いて家に帰ると、毎日紗英の腹を撫でた。撫でる度にそれは少しずつ大きくなり、大きくなり過ぎた彼は帝王切開で取り出された。
 生きなければならない。
 親より長く生きられればそれでいいと思っていたけれど、とんでもない。ザキは一秒でも長く、家族を見詰めていたいと思った。守らなければならない。
 ザキは全力で働き、店は売上を伸ばした。通りの向かいにいい物件が出て、新店舗オープンの話が具体的になり、暫くの検討期間を経て中止になった。オーナーから、がっかりすんなと肩を叩かれ、その感触が何日も肩骨の奥に残っていた。
 車窓の風景が流れて行くように、人生は進む。それは美しいのと同時に、ただ一つの容赦もない景色だ。
「だいじょうぶ、ザキくん危なくないって」
「駄目だ、高速バスなんて。絶対に新幹線で行く。新幹線での死亡事故は、未だゼロ人だ」
「だって高いんだもん」
 異常な程神経質に自分や子供の安全に気を使う夫に、紗英は狂気さえ感じたと言うけれど、ザキが見る限りでは、妻は概ね幸せそうに見えた。

 ボインはお父ちゃんのためにあるんやない。黒ずんで固くなった紗英の乳首にしゃぶりつく我が子を見ていると、心からその事を正しいと思う。一日でも早く自分の店を持たなければならない。息子の海斗は紗英よりも自分の方に似ているから、きっと手間の掛かる子供になるだろう。
 乳を飲みながらうとうとと目を閉じる海斗。微笑む紗英の真後ろにあるカーテンを風が膨らませて揺らす。子供用の小さな寝台の上では、幾何学的な飾りの付いたメリーが回っている。ドアの前には誰もいないし、この部屋に家族以外の人間は、いる筈もない。床にも天井にも、誰も潜んでなんかいない。幸せを感じる度に、辺りを見回す癖が付いた。キッチンの蛇口から、水滴が落ちた。
「寝たら重たくなるのってなんでだろ。体重が変わる訳じゃないのに」
 紗英は湖に小舟を浮かべるようにそっと海斗を降ろして、メリーのスイッチを切った。
「何でだろう。不思議だね」
 安らかな寝顔を覗き込んで、ザキは答えた。ザキの人差し指を、小さな手が吸い付くように掴む。その手が自然に離れるまでの間、ザキは石川咲子の事を考えていた。
〈モナリザの陰毛〉や〈土の膣〉で有名な、若手女流作家の安藤弘美が刺殺されたニュースは朝の情報番組で何度も繰り返して流された。年齢は二十四歳。出身は東京。ザキは記憶の引き出しを掻き回して、石川さんの記憶を探した。高校の同級生の有名作家。テレビにも出ている。元は太っていたけど、今は痩せた美人。間違いようがない。安藤弘美以外に、二十五歳でテレビに出ている女流作家は一人も思い浮かばない。石川さんが命の半分を使って助けた人は、昨日の夜に刺し殺された。
「今日は何かいいことあった?」
 紗英の笑顔に不安の影が見えた。
「うん、今日もお客さんいっぱい来たよ」
「そっか、良かったね」
作品名:ランドセルの神さま 作家名:新宿鮭