ランドセルの神さま
1
ペペロンはもどかしげにそして若干切なげに。逆にチーノは思いっきりハイテンションで。両手は腰に、両足は肩幅に開き、ゆっくりと一回転させた股間を一気に前へ突き出す。
「ペペロンッチーノォッ!」
ザキこと山崎平太は、この下品極まりない不条理ギャグで一世を風靡し、大ブレイクの一年半後には完全に電波から消え去った所謂一発屋のコメディアンだ。
忘れ去られたコメディアンの行き着く先は、田舎に帰って家業を継ぐ、営業専門になって結婚式や地方の慶事で小銭を稼ぐ、事務所に残ってマネージャーになる、放送作家に転身して何とか食いつなぐ、恋人にぶらさがって昼間から酒を飲んで暴れる、と様々だが、ザキの職業は居酒屋のウェイターだ。芸能界にもう未練はない。長い下積みを経てストレスから解放されたその時から、ザキは質量を持った巨大な闇のような不安を抱え始めていた。アドリブが利かない。脳と声帯が直結しているような売れっ子芸人達の話芸に、自分の言葉を挟むタイミングが見付からない。来年は消えていそうな芸能人ランキングのトップスリーには必ず自分の名前があり、事実世間の予測通りになってしまった後、彼は自分自身でも驚く程にあっさりと、現実を受け入れた。ザキの心にはリベンジする気力も事態を楽観する鈍感力も残っていなかった。長年付き合った恋人を何とか幸せにしてやりたい。その為には、芸能界から足を洗って地道な生活をするしかなく、それがここまで自分を支えてくれた恋人への唯一の恩返しだと盲目的に思い込み、ただそれを実践した。彼の周囲の人間は、皆同じ事を言う。ザキは芸能人として成功するには生真面目過ぎたのだと。
新宿の歌舞伎町にある居酒屋のオーナーは元撮影所の俳優で、事務所の会長の親友だった。その縁で拾ってもらったザキは、いずれ雇われ店長として、店を一軒任される事になっている。顔の売れている彼は日に三回は酔客からペペロンチーノを発注されるけれど、和食中心のこの店のメニューに、ペペロンチーノはない。「すいません、それはやってないんですよ。ペペロンチーノなら近くに60分1万5千円の所があるんでもし良かったら紹介しますか?」男同士で飲みに来ている客にはそう応えて笑いを取り、女の客がいる場合には、「ペペロンチーノは女性限定の裏メニューですが閉店後マンツーマンでのサービスになります」と応えて戯ける。
ザキは笑顔を振りまきながらホールを駆け回る。その努力の先に幽かに見える自分の店。その店のメニューにペペロンチーノを含めるかどうかは、今の所まだ決めていない。
午前四時。ドリンクのラストオーダーを取り終えて、煙草一本分の休憩をする。その後一日の売り上げを計算するのは、ザキの仕事だ。もう九月も残り数日だというのに残暑の厳しい木曜の夜。大衆チェーン店よりも少しだけ客単価の高いこの店は今日もまずまずの売り上げで、不景気の最中健闘している方だと言える。日々の利益がザキの収入に直接反映される事はないけれど、目標に少しずつ近づいている気がして、こんな日は気分が良い。
「ザキくんお疲れ。今日どう? ちょっと飲んでく?」
雇われ店長の仲間さんが欠けた前歯に煙草を挟みながら、右手を杯を持つ形にし、人懐っこく笑った。
「じゃ、ちょっとだけ」
従業員用の一升瓶を酒棚から引っ張り出し、客も他の店員も誰も居なくなったホールでコップに酒を注ぐ。有線放送を消すと、眠った巨大生物の体内のように店内はしんと静まりかえる。営業中とそうでない時間のこの店のギャップは、ザキにライブホールを連想させる。
「今日も疲れたっすね」
「そうだな。変な客来なくて良かったな」
もう何度となく繰り返しているやりとり。安酒が喉に沁みていく。
仲間さんはザキよりも五歳年上の四十歳で沖縄出身。芋虫のように丸っこい指にはヒジキみたいな黒々とした毛が生えている。見たことはないけれど、胸毛も凄そうだ。自称琉球空手の達人で、筋肉質とも固太りとも取れる体型は、そうと見えなくもないけれど、実は臆病な平和主義者で、始終乱暴な酔客が来ないかと気を張っている。
「ザキくん今日はもう寝るだけ?」
「ま、そっすね」
「彼女とはまだ続いてるの?」
「ええまあ。相変わらずっす」
ザキは鼻の横を掻いて応え、音をたてず自然に立ち上がる。
「じゃ、あれだね。今日帰ったら、あれだ、彼女の手料理の」
「ペペロンッチーノォッ!」
これをやらないと、仲間さんは家に帰してくれない。
「今日は何かいいことあった?」
そう言って八重歯を見せる恋人の笑顔を見ると、ザキは鼻孔の奥に柔らかな幸せが膨らんでいくのを感じる。二十代の終わり頃、お笑いライブの打ち上げで知り合った田島紗英は特別美人ではないけれど、丸顔で小柄な彼女はいつもザキの味方だった。売れる前も、売れてからも、売れなくなってからも。
「特別いいことはなかったけど、また店長と一杯だけ飲んできたよ」
新宿駅から京王線に乗って東に三十分。八畳一間に三畳のキッチンが付いた古いアパートが二人の住処だ。ザキと入れ替わりに派遣の仕事に出る紗英は、キッチンのテーブルに日本茶を出し、顔全体で微笑む。そして彼女が次に言う言葉を、彼は既に知っている。
「そっか、よかったね」
ザキは「そうだね」と答え、眩しそうに目を細める。芸能界に見切りを付け、居酒屋に勤め始めてからの二年間、二人はずっとすれ違いの生活を続けている。二人の時間が交錯するのは、朝の数時間だけだ。
「冷蔵庫に鯖の味噌煮入れておいたから後でチンして食べて」
「え、やったぁ。今食べたいな」
「ダメだよ寝る前にご飯食べちゃ。最近どんどん太ってるし」
紗英は悪戯っぽく言って、ザキの下腹をつついた。時間さえあれば、このまま彼女を抱きしめて、何時間でも眠りたい。後ろで一本に束ねた彼女の髪からシャンプーの香りがして、自分も同じものを使っているのに何で彼女の髪だけこんなに香しいんだろうと、とりとめのない事を思う。
「そりゃあ腹も少しは出てくるよ。もう三十五歳だぜ」
「知り合った時はあんなに痩せてたのにね」
紗英の目線の先には額装された資格通信講座の雑誌広告があり、必勝鉢巻きを締めて左斜め四十五度を見上げるザキの目が野望に燃えている。特太のゴシック体で大きくレイアウトされたキャッチコピーは、〈来年のあなた、大丈夫ですか?〉だ。
「そんな目で俺の過去を見ないで」ザキは戯けて言い、「よーし!」と背中を伸ばした。「駅前まで送るよ。たまには散歩でもしなきゃ」
軽自動車と電信柱に挟まれて、ザキが絶命したのは、二人で手を繋いで家を出たほんの十分後の出来事だった。
2
両手で突き飛ばした紗英が、アスファルトに倒れながら驚愕に目を開いている。バンパーが膝に触れるのを感じた直後、ワゴンタイプの短いフロントノーズが、内臓を押し潰した。意識が消えるまでの数十秒間。そんな短い時間では、未練も絶望も感じる暇がなかった。ザキはただ死を覚悟し、人間の体はこんなに柔らかく脆いものなのかと、他人事のようなイメージをぼんやりと抱いた。
ペペロンはもどかしげにそして若干切なげに。逆にチーノは思いっきりハイテンションで。両手は腰に、両足は肩幅に開き、ゆっくりと一回転させた股間を一気に前へ突き出す。
「ペペロンッチーノォッ!」
ザキこと山崎平太は、この下品極まりない不条理ギャグで一世を風靡し、大ブレイクの一年半後には完全に電波から消え去った所謂一発屋のコメディアンだ。
忘れ去られたコメディアンの行き着く先は、田舎に帰って家業を継ぐ、営業専門になって結婚式や地方の慶事で小銭を稼ぐ、事務所に残ってマネージャーになる、放送作家に転身して何とか食いつなぐ、恋人にぶらさがって昼間から酒を飲んで暴れる、と様々だが、ザキの職業は居酒屋のウェイターだ。芸能界にもう未練はない。長い下積みを経てストレスから解放されたその時から、ザキは質量を持った巨大な闇のような不安を抱え始めていた。アドリブが利かない。脳と声帯が直結しているような売れっ子芸人達の話芸に、自分の言葉を挟むタイミングが見付からない。来年は消えていそうな芸能人ランキングのトップスリーには必ず自分の名前があり、事実世間の予測通りになってしまった後、彼は自分自身でも驚く程にあっさりと、現実を受け入れた。ザキの心にはリベンジする気力も事態を楽観する鈍感力も残っていなかった。長年付き合った恋人を何とか幸せにしてやりたい。その為には、芸能界から足を洗って地道な生活をするしかなく、それがここまで自分を支えてくれた恋人への唯一の恩返しだと盲目的に思い込み、ただそれを実践した。彼の周囲の人間は、皆同じ事を言う。ザキは芸能人として成功するには生真面目過ぎたのだと。
新宿の歌舞伎町にある居酒屋のオーナーは元撮影所の俳優で、事務所の会長の親友だった。その縁で拾ってもらったザキは、いずれ雇われ店長として、店を一軒任される事になっている。顔の売れている彼は日に三回は酔客からペペロンチーノを発注されるけれど、和食中心のこの店のメニューに、ペペロンチーノはない。「すいません、それはやってないんですよ。ペペロンチーノなら近くに60分1万5千円の所があるんでもし良かったら紹介しますか?」男同士で飲みに来ている客にはそう応えて笑いを取り、女の客がいる場合には、「ペペロンチーノは女性限定の裏メニューですが閉店後マンツーマンでのサービスになります」と応えて戯ける。
ザキは笑顔を振りまきながらホールを駆け回る。その努力の先に幽かに見える自分の店。その店のメニューにペペロンチーノを含めるかどうかは、今の所まだ決めていない。
午前四時。ドリンクのラストオーダーを取り終えて、煙草一本分の休憩をする。その後一日の売り上げを計算するのは、ザキの仕事だ。もう九月も残り数日だというのに残暑の厳しい木曜の夜。大衆チェーン店よりも少しだけ客単価の高いこの店は今日もまずまずの売り上げで、不景気の最中健闘している方だと言える。日々の利益がザキの収入に直接反映される事はないけれど、目標に少しずつ近づいている気がして、こんな日は気分が良い。
「ザキくんお疲れ。今日どう? ちょっと飲んでく?」
雇われ店長の仲間さんが欠けた前歯に煙草を挟みながら、右手を杯を持つ形にし、人懐っこく笑った。
「じゃ、ちょっとだけ」
従業員用の一升瓶を酒棚から引っ張り出し、客も他の店員も誰も居なくなったホールでコップに酒を注ぐ。有線放送を消すと、眠った巨大生物の体内のように店内はしんと静まりかえる。営業中とそうでない時間のこの店のギャップは、ザキにライブホールを連想させる。
「今日も疲れたっすね」
「そうだな。変な客来なくて良かったな」
もう何度となく繰り返しているやりとり。安酒が喉に沁みていく。
仲間さんはザキよりも五歳年上の四十歳で沖縄出身。芋虫のように丸っこい指にはヒジキみたいな黒々とした毛が生えている。見たことはないけれど、胸毛も凄そうだ。自称琉球空手の達人で、筋肉質とも固太りとも取れる体型は、そうと見えなくもないけれど、実は臆病な平和主義者で、始終乱暴な酔客が来ないかと気を張っている。
「ザキくん今日はもう寝るだけ?」
「ま、そっすね」
「彼女とはまだ続いてるの?」
「ええまあ。相変わらずっす」
ザキは鼻の横を掻いて応え、音をたてず自然に立ち上がる。
「じゃ、あれだね。今日帰ったら、あれだ、彼女の手料理の」
「ペペロンッチーノォッ!」
これをやらないと、仲間さんは家に帰してくれない。
「今日は何かいいことあった?」
そう言って八重歯を見せる恋人の笑顔を見ると、ザキは鼻孔の奥に柔らかな幸せが膨らんでいくのを感じる。二十代の終わり頃、お笑いライブの打ち上げで知り合った田島紗英は特別美人ではないけれど、丸顔で小柄な彼女はいつもザキの味方だった。売れる前も、売れてからも、売れなくなってからも。
「特別いいことはなかったけど、また店長と一杯だけ飲んできたよ」
新宿駅から京王線に乗って東に三十分。八畳一間に三畳のキッチンが付いた古いアパートが二人の住処だ。ザキと入れ替わりに派遣の仕事に出る紗英は、キッチンのテーブルに日本茶を出し、顔全体で微笑む。そして彼女が次に言う言葉を、彼は既に知っている。
「そっか、よかったね」
ザキは「そうだね」と答え、眩しそうに目を細める。芸能界に見切りを付け、居酒屋に勤め始めてからの二年間、二人はずっとすれ違いの生活を続けている。二人の時間が交錯するのは、朝の数時間だけだ。
「冷蔵庫に鯖の味噌煮入れておいたから後でチンして食べて」
「え、やったぁ。今食べたいな」
「ダメだよ寝る前にご飯食べちゃ。最近どんどん太ってるし」
紗英は悪戯っぽく言って、ザキの下腹をつついた。時間さえあれば、このまま彼女を抱きしめて、何時間でも眠りたい。後ろで一本に束ねた彼女の髪からシャンプーの香りがして、自分も同じものを使っているのに何で彼女の髪だけこんなに香しいんだろうと、とりとめのない事を思う。
「そりゃあ腹も少しは出てくるよ。もう三十五歳だぜ」
「知り合った時はあんなに痩せてたのにね」
紗英の目線の先には額装された資格通信講座の雑誌広告があり、必勝鉢巻きを締めて左斜め四十五度を見上げるザキの目が野望に燃えている。特太のゴシック体で大きくレイアウトされたキャッチコピーは、〈来年のあなた、大丈夫ですか?〉だ。
「そんな目で俺の過去を見ないで」ザキは戯けて言い、「よーし!」と背中を伸ばした。「駅前まで送るよ。たまには散歩でもしなきゃ」
軽自動車と電信柱に挟まれて、ザキが絶命したのは、二人で手を繋いで家を出たほんの十分後の出来事だった。
2
両手で突き飛ばした紗英が、アスファルトに倒れながら驚愕に目を開いている。バンパーが膝に触れるのを感じた直後、ワゴンタイプの短いフロントノーズが、内臓を押し潰した。意識が消えるまでの数十秒間。そんな短い時間では、未練も絶望も感じる暇がなかった。ザキはただ死を覚悟し、人間の体はこんなに柔らかく脆いものなのかと、他人事のようなイメージをぼんやりと抱いた。