ランドセルの神さま
「じゃあ取りあえず精算だ。さっきの分と合わせて千四百二十円。お前ら三人で割り勘にするか?」
「はあ?」
後部座席の三人が、一斉に答えた。落ちぶれたロッカーは今や守銭奴だ。三つの口が「なんで」とコーラスし、一つの小さな口が、「やねん!」とソロを取った。
「お前死神から金取るんかっ、ちゅうか持っとるわけないやろっ」
「じゃあ、この子の分は私とペ山崎さんで払います」
「子供扱いすなっちゅうてるやろっ!」
「石川さんいまペ山崎って言いませんでした?」
「鼻糞は黙っとけっ!」
小学生は歯ぎしりをして、幼い顔をくしゃくしゃに歪めた。
「せっかく今いいこと言おうと思てヒントちらつかせてやってたとこやっちゅうのに」
「ヒントってこの車がどこに行くのか分かるって言ってたことですか?」
「おっ、ねえちゃん鋭い。そう。そうやねん。俺は別に間の悪い男やない。こんなせこい運転手のタクシーわざわざ選んで乗り込むようなボケとちゃう。この車に乗ることは最初っから決まってて誰に言われるわけでもないけど俺らはそれに乗ってしまうねん。抵抗でけへん」
小学生の肩越しに見える石川さんの顔が古いテレビの色合い調整つまみを回したように、ふうっと青ざめた。
「それってもしかして」
「そうや」
「どういうこと?」
純也が首を傾げて、というより顎を過ごしだけ歪めて言った。
「彼はただここに来る為の車に乗ったという事です」
石川さんの言葉から少しだけ間を置いて、純也は車の周囲を見回した。
「俺」分かんないっす、と言いかけたザキの声に被せて、小学生がくるりと振り返る。
「ここいらで死人がでるちゅう事じゃボケ!」
ザキは腋の下に冷たい汗を掻いた。石川さんは小さく唾を呑み、メサイヤの純也は眉間を歪めた。
「どやっ、おもろいやろ。さあ、もうちょっとや。分かんねん。あと3分ほどかなあ。さあて」
小学生はシートと背中の間でぺしゃんこになっていたランドセルの肩紐を片方だけ外し、器用に体の前に持ってきた。フラップを開け、古いデザインの大学ノートを取り出す。
「どんなやつやろなぁ。もしかしてお前らやったりして」
ザキは今の状況から考えられる三分後の死に方について考えた。自分達は車の中にいて、その車は今、路肩に停止している。交通事故に遭う可能性はあまりない。ドアの外にはありふれた日常があり、光を背負った人達と光を受けた人達が目の前を交差していく。
ぬしむらしょういち
下手糞なひらがなで名前の書かれたノートが開かれ、小学生は中の文字に大袈裟なほど顔を近付けた。
「うわっ、最悪や」
ぬしむらしょういちの文字がゆっくりと下がる。地平線から何かが現れるように、ノートの上のラインから小学生の目がゆっくりと迫り上がってきた。ザキは息苦しくなって心臓を押さえた。少年の目が、真っ直ぐに自分を見ていたからだ。
「お前じゃーっ」
ザキは眼球を押し込むようにきつく目を閉じ、紗英の事を想った。
「死因はシコシコのし過ぎ、おもんないことの言い過ぎによる頭ぼっかーん死じゃ」
ザキは心臓を押さえていた手を離し、悩める作曲家のようなポーズで頭を抱えた。
「嘘に決まっとるやろアホかっ! 頭ぼっかーん死なんてある訳ないがな」
目を開けると、最も効率良く人を怒らせる時の表情の見本のような顔で、小さな半眼がザキを見ていた。
「そしたら」小学生は尻を上げた。「アホでも出来る仕事してくるわ」
石川さんの膝の上を乗り越えて、小学生はドアを開いた。一度外に出した頭を引っ込めて、石川さんをいやらしい目で見る。
「お前ら、自殺すんなよ。あれはあかんねん。体通ってもなんや気色悪いねん。どんなエエ女でもやで」そこまで言ってから、緑の草原で眠るように目を閉じて、彼は大きく鼻呼吸した。
「自殺はようない。命は大事にせえよ。ただでさえお前ら寿命の四分の一取られてもうとんのやからな。ちょと最後に乳揉ませて」
小学生の手が石川さんの胸を鷲掴みにすると、思ったよりも大きな乳房が軟らかく広がった。
「主村さんっ、四分の一取られてるって何ですか?」
石川さんは横に倒した8の字を描くように蠢く子供の手を気にもしない様子で、小学生の顔を見据えた。
「あら、なんや、それ知らんのか。お前ら人の死にぎわ横取りしといて、ただで帰ってこれたと思とんのか幸せなやっちゃなあ。お前らは寿命の四分の一を徴集されとる。その分がお前らが横取りしたちゅうかお前らにしてみたら助けたちゅうことになってる奴らの追加時間。今風に言うたらボーナスタイムじゃ」
小学生の左手は、石川さんのブラジャー越しの乳首を正確に軽くつまんで、するりとドアの向こうに消えた。振り返ると反対側の窓から、ランドセルを揺らしながら通りを渡って行く小さな後ろ姿が見えた。歩道に上がる数歩前で死神は立ち止まり、ポケットから鉛筆を取り出して先端を舐めた。直後、彼の足下で若い女の脳漿が弾けた。自殺だ! と言う声がして、すぐに飛び降りという言葉が加わり始めた。小学生がノートを閉じると、何かが彼の体の中を通るのを感じた。少年の体は数秒の間不自然な形で静止した後、ゆっくりとタクシーを振り返った。
おえーっ
顔を顰めた小学生の口が、そんな形に開いた。
15
マイルス・デイビスが音符を撒き散らしながら、スピーカーの間で鳴いている。知り合いのミュージシャンからマリファナを買って、青田純也は数年振りにトリップしていた。家賃七万円の狭いワンルームで、コンビニの袋を開く。苺大福を齧ると、あんこと餅の比重の違う軟らかさが口の中と舌のまわりに絡み付き、弾けた苺の果汁がやがて別の甘さを連れて来る。こんなに美味い物がコンビニに百二十円で売っているなんて信じられない。葉っぱを吸った後に食う苺大福以上に美味い食い物は、きっとどこにもないだろう。青田はまたガラスパイプに口を付け、生き物のような形の煙を吐いた。そしてその後で、生き物が体に残した鱗や体毛を吐き出すように、激しい連続的な咳をした。またコンビニ袋に手を突っ込んで、ドロリッチを取り出す。限りなく個体に近い甘い液体を吸うと、粘り気を備えた強烈な甘さが口の中に広がって行った。これ以上美味い飲み物が、この世にあるだろうか?
CDをダブに変えて、昔誰かの土産でもらったお香を焚いた。その香りは青田に、行った事のない中近東の風景を想像させた。
久しぶりにマリファナを吸って分かった事は、マリファナを吸っている時の方が、夢と現実の違いがはっきりするという事だ。音楽が煌めいているのも、舌の上で蜜がとろけているのも良く出来た単なるイメージで、昼間あった事は間違いなく事実だ。試しに滅多に視ないテレビを点けてみると、殆どのチャンネルでアイドルの自殺が報じられている。人気のあるアイドルユニットを卒業したばかりの彼女は遺書も残さずに、稽古場の入ったビルの屋上からダイブし、数メートル先の地面で頭を潰した。
青田はテレビを消して、自分の寿命について考えてみた。