ランドセルの神さま
「それよりもさあ」青田さんがうんざりしたように振り返り、誰にも目を合わせずに言う。「誰か頭の悪そうなやつを車に引っ張り込んで尋問した方が楽なんじゃないか?」
暫くの沈黙を経て気が付くと、全員が頭の悪そうな子供を探していた。頭が悪そうで何でも素直に答えてくれそうな単独行動している子供。出来ればまだ小さくて、ひ弱な子供がいい。
「僕たち客観的に見たら誘拐犯ですね」
ペペロンチーノの人が珍しく面白い事を言い、咲子は笑いを堪えた。もし誰にでもあの小学生が見えていたら、私達は誘拐犯以外の何物でもない。直感でほぼ特定出来るとは言え、もし万一間違えて〈普通の小学生〉を捕まえてしまったら、冗談では済まされない。きっとどこかで誰かが見ていて、携帯やメールで通報され、翌日のトップニュースになるだろう。なんせ私以外の二人は、元芸人と元ビジュアル系ミュージシャン、元芸能人だ。有名度合いからすると、ペペロンチーノの人の方が圧倒的に上だから、きっとスポーツ紙の見出しは〈ペペロンチーノ! 誘拐 逮捕〉みたいな感じだろう。咲子は前髪にふうっと息を吹きかけた。今日は一旦引き上げて、また日を改めよう。居る場所は分かったのだ。計画を立てて、また来ればいい。がちゃりと音がして振り向くと、青田さんが運転席のドアを開けている。
「ダメだ。煙草が我慢出来ねえ」青田さんは躊躇なく車を降り「ついでにちょっと行って見てくるわ」と言いながらドアを閉めた。
「ええええええっー」ペペロンチーノが大袈裟にリアクションし「じゃあ俺も一緒に行きますよ」と車を出た。青田さんの観察眼か単なる偶然かは分からないけれど、歩道にも階段にも小学生の姿はない。
「だいじょうぶでしょ、だって考えてみたらギター教室に入って悪い事なんか何もないし、あそこに入って出てこれないんだったら今まで何人蒸発してるか分かんないっすよ。いくらなんでも年に何人かはいるでしょ、ギター習いにあそこに見学に行く人」
二人の後を追って外に出た咲子に、ペペロンチーノが言った。
「確かに。そうですね」
長身の細い体をくの時に折り曲げて、青田さんは階段に向かった。信号の点滅し始めた横断歩道を大股で歩く。時折煙草を深く吸い、こんもりと吐き出した煙が弱い風に散って消える。その煙草が半分も減らない内に三人は階段を上り切り、青田さんはノックもなしにドアノブを引いた。心の準備が何一つ出来ないまま、咲子の前でドアが開いた。
そこには、何もなかった。
ただ暗闇があるだけ。
でも咲子にはそれが、あの場所だとすぐに分かった。
暗闇に目が慣れて来ると、月明かり程度の微かな光に照らされた地面に、ドライアイスが広がっているのが見えてきた。闇は果てしなく遠くまで続いていて、見上げるとそれは、果てしなく高い。
「やべっ、俺ここ来た事あるっす」ペペロンチーノの人が呆然となって口を開いた。「やべっ、しかも全部思い出しちゃった。ここ〈あの世〉っすよ」
急に扉がばたりと閉まり、咲子は首を竦めた。青田さんの吐き出した煙草の煙が、抜き取られたばかりの魂のようにドアの前で漂っている。まるで扉の向こうに入り損ねたみたいに。
「戻ろう」
青田さんの声を聞いて初めて、扉は勝手に閉まったのではなく、青田さんによって閉められたのだと分かった。上って来た時と同じ順番で、三人は階段を下りた。青田さんは途中で早足になり、出遅れたペペロンチーノと咲子の間に距離が出来た。運転席に乗り込んだ青田さんがすぐにエンジンをかけた時には、咲子は置いてきぼりにされるのだと思った。追い付いたペペロンチーノがドアノブに手をかけようとするのと同時に、自動ドアがすっと開いた。
「早く乗れ」
来た時とは逆の順番で、二人はタクシーに乗り込む。青田さんはウインカーを出して、律儀にメーターを入れる。通りの向こう側は急に賑やかになり、まるで小学校の下校時間のようだ。
「おいっ、こらっ、そこの姉ちゃんオメコ見せい」
職業不詳の派手な女の人に、小学生が声をかける。恐らくは横山やすしの物真似であろう怒肩の操り人形のような歩き方が、何人かの別の小学生の笑いを誘ったけれど、当然のように女は振り返らないし、性器も見せない。通り過ぎる白バイ警官は、そんな事を気にもしないで等速直線運動で去って行く。青田さんの走った理由が、これらの小学生集団との鉢合わせを避けたものだとしたら、その目的は達成されていると言える。私達はどこか落ち着いた所に車を停めて、危なかったねとかびっくりしたねとかすごかったねみたいな事を言い合って、今日の反省と次回の予定を立て、ほとんど接点の無いそれぞれの日常に戻る。しかし咲子は、そうならない理由を、ペペロンチーノの人と共有していた。二人の間には、やたらにバッジのついた近鉄バッファローズの帽子を被った、学童服の半ズボンが、鼻を垂らして座っていた。
14
窓外の景色が流れて行く。小学生の視線は、ザキの鼻に固定されている。さっき走った時に鼻の穴から剥がれた鼻糞が弁のようになって、呼吸する度に貼り付いたり離れたりを繰り返している。ザキは子供から目を逸らせたまま、鼻呼吸を繰り返した。
「うわあ……、めっちゃじれったいなこれ」
車体が大きく揺れてクラクションの音が響いた。ザキは窓ガラスに後頭部を打ち、車内の三人全員がこの状況を把握した事を知った。
「お前」メサイヤの純也が後部座席を振り返って言った。
「はあ?」小学生の顎が、からくり人形みたいにかくんと落ちた。「お前て、お前なんで見えてんねん」
「知らねえよ。こっちが聞きたいぐらいだ。っていうかそれを調べに来たんだった、ちょうどいいや」
ザキには純也の一言一言が、夢の中に出て来るロックスターのMCのように聞こえた。そうだ、自分達は〈そういうこと〉を聞きに来たのだ。
「そう、それを聞きに来たの」石川さんが背中のスイッチを今入れたみたいに首の向きを変え、言った。
「うわあ、お前もっ、ちゅうか鼻糞ついてるやん。ほっぺたにペタって」
「あっ、すいません」ザキは慌てて手を伸ばし、石川さんの頬に貼り付いた自分の鼻糞を取った。
「お前その鼻糞どうすんだよ」
タクシーの床に落とそうとしていたザキを牽制するように純也は言って、窓ガラスを三分の一開けた。ザキは申し訳なさそうに窓から手を出し、人差し指でそれを弾いた。ふと見ると、小学生が中指と人差し指を交差させ、えんがちょのポーズを取っている。
「きったないなあお前、なんなんじゃお前らは」
「お前こそ」ザキはかっとなって頬を紅潮させた。「お前こそなんなんだ。死神か」
「死神? お前こんなかいらしい顔した俺に向かってようそんなこと言うたな。そうや、俺は言うたら死神みたいなもんや。それがどないした」小学生はそう言ってふんぞり返り、背中側にいる石川さんを窓際に押し付けた。「あら? なんやお前ら、触れるんか。あら、よう見たらあんたいい女やんか。ちょっとええかな」
小学生は石川さんのスカートに手を入れて内股をまさぐると、腰のあたりに鼻水だらけの顔を押し付けて思い切り息を吸った。
「このスケベ小僧」純也がシートの間から腕を伸ばし、小学生の頭を叩く。