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ランドセルの神さま

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 それは息が止まるほど美しいハイキックだった。雨の歩道橋から偶然見えた空手道場の、水滴が筋になって流れるガラス窓の中で、橋本伸吾は相手の首に巻き付いた瞬間に離れる鞭のような蹴りを放っていた。伸吾の脚がもとあった場所に下ろされた直後、相手の体は全ての血液を吸い取られたように膝を付いて倒れ、咲子の視界から消えた。伸吾はほんのしばらくの間、崩れていく相手の顔を目で追った後、しまったという表情で口を開いた。その全てが、雨音の中で行われた。咲子は秀才で愛嬌があっていつも地味な服装をしている彼が、予兆のない速く的確なハイキックを蹴る技術を持っている事を雨の中で知った。あれだけの動きを身につける為に、一体どれだけの反復練習をしなければならないか、陸上選手の咲子には想像が出来た。下半身は相手に向かって伸びて行くのに、上半身はねじれるように逆方向に回転する。そんな動きは訓練なしではきっと出来ない。
 翌日から、咲子は彼をまるで違う思いで見ていた。圧倒的な格闘能力があれば、流行の服やサブカルチャーの専門的な知識を持たなくても堂々と生きていられる。似たもの同士のグループを必要としない橋本伸吾は飄然としていて、その魂は清潔に見えた。咲子の分かる範囲では、クラスの女子の中に、彼が空手をやっている事を知っている者は誰も居なかったし、咲子はそれを誰にも話さなかった。咲子は自分でも疑いようがないくらい、彼に恋していた。
 昼休みに誰かが屋上を見上げて何かを叫び、その声をきっかけにしたようなタイミングで大きな処女が空中に跳び上がった時、ゴミ捨て場の少し先に見えていた橋本伸吾が地面を蹴った。それを見た瞬間、咲子は無意識に走り出し、二人は距離を詰めた。橋本伸吾よりもいくらか近くにいて、陸上部のエースだった咲子は先に落下地点に到達し、華奢な腕と小さな胸で女子生徒を受け止め、死を選んだ彼女の代わりに命を終わらせた。短くし過ぎた前髪が恥ずかしい。前髪を橋本伸吾が息を切らせながら咲子の顔を覗き込んだ時、そんな事が頭に浮かんだ。
 大人になった今でも、咲子はその時の事をありありと思い出す事が出来る。それは本物の体験にしか思えず、痛みも悲しみも後悔も全て覚えている。けれど彼女は死んではいなかった。
〈あの世〉から追い返されたからだ。
 死ぬ筈だった女子生徒は左の膝の皿を割り頭の皮膚を切ったけれど、文字通り奇跡的に命を取り留め、長い入院の結果人並みに痩せた体を手に入れ、二十代の前半に自殺をテーマにした小説でデビューすると、その作品で大きな賞を獲り有名な作家になった。咲子は彼女の代わりに一度死に、訂正されてこの世に戻った。それを境に、通常の人生とは別の物語の〈なか〉に入った気がする。ギター教室に向かうタクシーの中で、咲子はそんな事を考えた。青田さんのタクシーは芳香剤と誰かの加齢臭と誰かの化粧の臭いが、複雑に混じり合って薄く残っていた。モナリザの陰毛。作家になった上級生の最新作には、そんなタイトルが付けられていた。咲子は図書館でその小説を手に取ったけれど、文体が独創的すぎて何も理解が出来なかった。兎に角、自分は彼女の命を救い、それがなければ〈モナリザの陰毛〉がベストセラーになる事は無かった。

13
 うわあ、いるいる。
 ペペロンチーノの人が車道側の窓に顔を寄せて呟いた。咲子は窓枠についた頬杖を外し、右外の風景に瞳孔の大きさを調整した。
 通りの向こう側に、彼らは居た。ざっと見ただけで二十人程の男子小学生が、ある者は戯け顔でじゃれ合いながら、ある者はすれた不良少年のように眉根を寄せて同じ雑居ビルに歩いて行く。ビルの外階段を上がり、二階の扉の中に入っていく。扉は内側からも開き、別の小学生がひっきりなしに現れる。上っていく小学生と下りていく小学生は狭い階段を何のストレスもなく擦れ違っていく。階段はその一部だけが蟻の巣の断面図のように見えた。扉にはギター教室の看板が付いているのに、ギターを持った者は一人も出入りしない。
 で?
 青田さんがメーターを止め、バックミラーを見た。「どうする? これから」その視線は後部座席に座った二人のちょうど中間を見ていて、誰とも目が合っていない。
「そう言えば」ペペロンチーノの人が窓に顔を付けたまま応えた。「何も考えてなかったっすね」
 三人は暫くの間、ただ黙って外を見ていた。答えはクエスチョンマークのまま、タクシーの天井に張り付いていた。室内の空気は澱んでいて、咲子は窓を開けたいと思った。遠くにパトカーのサイレンが聞こえ、何もやましい事はしていないのに心臓がリズムを速めた。スカートの丈を短くした今時の女子高生が、歩道にやって来る。剥き出しの若い脚の後ろに、ちょこまかと動く黒い小さな足がもう二本ある。変種のいきもののように感じたそれはすぐに分裂し、スカートの下から子供の顔が現れた。その顔はまるで、麻薬を吸い込んだ時の演技をしているように、過剰にうっとりと弛緩している。別の子供が前屈みになり、鼻の穴から息を吸い込みながら空席になったスカートの中に突進して行く。
「透明人間って、いたんだな」運転席から青田さんが言い、聞こえるか聞こえないかぎりぎりの声でペペロンチーノが「うらやましっすね」と呟いた。咲子は空気の重くなった密室に耐えられず、窓を少しだけ開けた。
 小学生達は例外なく男子で、最近の子供とはどこかが違っていた。ある者は咲子に自分の小学校時代の卒業写真を思い出させ、ある者は古いモノクロの記録映画の中の貧しくも無邪気な戦後の少年達をイメージさせた。服装もまちまちで、中には裸足の子供も居る。
「うわっ、パンツちっちゃー。最高や。匂いもあるよでないよで最高やー」
 濃紺の獅子舞になった女子高生のスカートの中で、興奮した小学生が言った。通りの反対側の閉め切った車の中にまで届くソプラノの声は、ほとんど接触している筈の女子高生には聞こえていない。そしてやはり彼も、関西弁だ。車内の男達が急に緊張を弛め、笑いを堪えるのを感じる。咲子は少し前に思いついた言葉を、口にしてみる。
「入って見ますか? あの中に」
 車内の全員が新堀ギターのドアを見上げた。子供達は次々にそこに入って行き、次々にそこから現れて階段を下りて来る。けれどほんのたまに、魔が差したように誰もいなくなる時間がある。
「だってこのままここにいたって何も進展しないでしょ」
「そうだけど」ペペロンチーノが振り返って言った。「なんかちょっと恐くない?」
「恐いって、みんな小学生だよ。中身はどうあれあの子達にそんなに体力があるとは思えない」
 そんな言葉が口から出て行くのと入れ替わりに、別のイメージが頭に浮かぶ。象に集る大量の蟻の映像だ。黒い象にしか見えない巨体がゆっくりと倒れると、地面についた膝の周りから黒い波紋が広がって行く。波紋は有機的に伸縮してその形を変え、波紋の正体である黒蟻達は、また象の体によじ登って肉を齧る。びっしりと蟻に被われた真っ黒な目玉から流れた涙が、数百匹の蟻を押し流しながら垂れる。
「そうだね」ペペロンチーノは実はそもそも賛成だったかのような軽さで「じゃあ行ってみようか」と言って、下唇に力を入れた。
作品名:ランドセルの神さま 作家名:新宿鮭