ランドセルの神さま
エレベーターのない雑居ビルの三階にある事務所には、誰もいなかった。咲子以外の社員は全員他の現場に出ていて、それは珍しいことではない。咲子は固定電話のボイスメッセージを聞いて、いくつかの取引先に折り返しの電話を掛けた後、来客用のソファでインスタントのココアを飲みながら次作の台本の最新稿を読んだ。それは熟年向けの恋愛映画で、余命三ヶ月と宣告された妻と横暴で亭主関白な元役人の夫が最後の旅をするロードムービーだ。一度目はざっくりと目を通し、二度目には配役を参考にして芝居を想像しながら読み込んだ。悪くない映画だと咲子は思った。ありがちな設定だけれども、話は意外な方向に転換して行き、最後にはちゃんと泣かせ所もある。アイドルも子役も出て来ない、大人の為の映画だ。そう肯定的に読んだ。肯定的にならなければ、クランクアップまでの長い時間が、辛すぎるからだ。
「だいじょうぶ」
誰もいない事務所に、咲子の声だけが響く。
「わたしは、狂ってない」
明日の午後二時。
集合場所は、四谷の駅前。
自分が異常ではないという証拠が欲しい。取り敢えずは、〈自分だけ〉が異常ではないという確証でもいい。石川咲子はまた前髪に息を吹きかけ、膝の上の台本を閉じた。
殆どがコンサバティブなデザインのものばかりのワードローブから、とりわけ地味なトレーナーとジーンズを選び、スニーカーを履いた。化粧は殆どせず、香水もアクセサリーも付けない。子供に警戒心を与えず、動きやすい服装を心がけたつもりが、四谷駅ビルのウィンドウに映った自分は、近所のコンビニにでも行くような格好で、対同姓としては隙だらけだ。咲子は湿気で膨らんだ髪を両手で押さえ、唇を小さく舐めた。お疲れ様です。と声がして、振り返るとペペロンチーノの人がいて、咲子は自分でも赤面して行くのが分かった。
「お疲れ様です」
そう答えて、こんな挨拶はこの場合適切なのだろうかと思った。映画の脚本ならば、こんな台詞にはならない気がする。
「じゃあ、行きますか」
ペペロンチーノの人はそう言って、歩道を先導した。彼は常に少しだけ微笑んでいて、人間としては好感が持てた。雑踏を抜けて少しした路肩に、タクシーが停まっている。そのボンネットに腰掛けるようにして、青田さんという運転手が煙草を喫っている。青田さんはお世辞にも陽気にとは言えない仕草で煙草を持った手を上げて、もう片方の手の中にある缶コーヒーを飲んだ。
「ちょっと距離あるから、これで行こう」
近付くと青田さんは煙草を足下に捨て、後部ドアを開けた。二人は少し迷って、後部座席に客のように並んで掛けた。あの、こんな時に言うのもなんなんですけど。先に乗り込んだペペロンチーノの人が遠慮がちに口を開き、咲子は、小さく「はいと」答えた。
「いや、あの青田さんになんですけど、青田さんってメサイヤのジュンヤさんですよね。俺、ずっとファンでした。CD全部もってます」
咲子は赤面し、脇の下に少し汗をかいた。青田さんは多分肯定の意味で「ありがとう」と言い、メーターを上げてウィンカーを出した。
「メーター上げないともし何かあったらやばいんで」
咲子の気持ちを読んだように、ミラー越しの青田さんが言う。
「ワンメーターだから一人355円だし」
それが本気なのか冗談なのか、咲子には分からなかった。さっきの会話から察すると彼は元ミュージシャンか何かで、その事に触れられてから少し機嫌が良くなったように見える。いやあ嬉しいっす、今度CD持って来ます。ペペロンチーノの人が鼻息を荒くした。CDを持って来たって何にもならないと思ったけれど、きっとサインでもして欲しいのだろう。
「あ、それで、サインしてもらっていいですか?」
ペペロンチーノの人が遠慮がちに付け加えた。元お笑い芸人と元ミュージシャンが、小学生の格好をした死神を探しに、四谷のギター教室に向かう。そんな脚本があったとしたら映画になるだろうか。咲子はふいに、自分がその変てこな映画の〈なか〉にいるような気がした。擦れ違う歩行者が、滲んでは流れていく。もしそうだとしたら自分は一体いつから〈なか〉にいるのだろう。考えるまでもなく、咲子には分かっていた。背中から延々と伸びている過去のフィルムには、その部分だけ明らかにカット割りの激しい部分がある。自分が死んだ瞬間だ。
頭の中から衝撃音がして意識を失い、やがてそれが自分の頭蓋骨が砕けた音だったのだと、アスファルトに広がっていく血の源泉を見て気付いた。咲子の視点は霞んでいく咲子自身の視点になったり、誰のものでもないいくらか俯瞰目の像になったりした。高校二年生の秋だった。校舎の屋上から落下してきた名前も知らない上級生はにきび顔の二重顎で、腫れぼったい目を大きく見開いていた。校舎の屋上から落ちてくる彼女を、なぜ無謀にも受け止めようとしたのか。羽のない巨大な昆虫のように手足を無意味に動かしながら迫ってくる塊は、誰がどう見ても華奢な咲子に救えるものではなかった。咲子が一瞬で膝の裏に力を溜め反射的に跳び出したきっかけは、橋本伸吾の脚が地面を蹴るのを見たからだ。言い換えれば、咲子が死んだ理由は、彼女の恋に起因したものだった。
同級生で同じクラスの橋本伸吾は美男子とは言えなかったが、咲子にとっての彼は、他のどの男子とも違っていた。彼は遅れてきた昭和の人のように髪型や着るものに無頓着で、かといって不潔でもなかった。髪は常に短く苅り揃えられていて、その下の眉は炭を擦りすぎた濃い毛筆で書かれた力強い線を合わせ鏡で映したように、くっきりと対称の像を結んでいる。彼の着るポロシャツやチノパンやブルゾンは人の記憶に残らない色や形を選んだように無個性だったけれど、染みやほつれはどこにもなかった。成績は飛び抜けて良く、卒業生の殆どが一流と二流のちょうど中間あたりにある大学に進学するその高校の中で時たま現れる、良い方の例外だった。彼は秀才で地味な服装をしている割には愛嬌があって、お洒落な男子のグループにも、アニメやフィギアが好きなグループにも慕われていた。いつも背筋をぴんと張って歩き、たまに咲子が知らないメロディーの、口笛を吹いていた。それは右翼の街宣車から流れてくる音楽のように不吉で、脳天気な彼の表情とまるで似合っていなかった。彼のハイキックさえ見なければ、あるいは咲子は彼に好意を持つことがなかったかも知れない。