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ランドセルの神さま

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「大変だったね」紗英はいくつかの選択肢から選ぶような間を置いて言い、ザキは「うん、生きてて良かった」と応えた。カーテンを開け放したベランダの窓に、洗濯物が揺れている。それを見て初めて、ザキはすばらしく天気が良い事に気が付いた。味噌汁の火を弱火に変えた紗英をザキは後ろから抱き締めた。シャワーを浴びたばかりの紗英からは石鹸の香りがする。同じボディーソープを使っているのに、ザキにはその匂いが何か特別のもののように感じる。ストッキングとパンティを同時に脱がせ、何の前戯もなくザキは紗英の中に入った。紗英はほんの少しだけ抵抗した後すぐに諦めてコンロの火を止めてシンクの縁に両手を付いた。リビングのテレビでは、新宿の事件が報道されている。こんな時に欲情するのは生存本能だろうか。そんな事が頭を過って、そのまま遠くへ消えて行った。ザキは全力で腰を打ち付け、やがて爆発したように飛び出した体液が紗英の奥で弾けた。零れた白濁が隙間から滴り落ちて、キッチンの床をべっとりと汚した。
 もう、あとで大変なんだからね。紗英の小言を聞きながら、二人で朝食を取った。あ、また出て来たちょっとナプキンしてくるもうザキくんしょうがないなあ。内股になってトイレに駆けて行く紗英に申し訳なく思いながら、ケチャップのかかった炒り卵を食べる。炊きたてのご飯は舌の上で味噌汁の水分を吸い、温かいまま胃袋にゆっくりと移動して行く。重い睡魔が近付いて来るのを感じる。柔らかな幸福の翼に包まれたように、ザキは口元を弛緩させた。

 鶏の鳴き声に設定した携帯のアラームを止めて布団から起き上がると、手の中の電話が点滅している。メールが六件。ほんの数時間前に全ての精子を出し切ったつもりなのに、痛い位に勃起している。いつも便器を汚して紗英に小言を言われているザキは座り小便をしながら携帯のメールを確認した。それは全てメサイヤの純也と石川さんのやり取りがccされたもので、最後のメールで三人が会う日時がいくつかに絞られていた。明日か明明後日、それが急すぎれば十日後。睾丸から陰茎の裏側にかけて、甘い痛みを伴った小便の奔流を感じる。体は恥ずかしいぐらいに生きているのに、メールの内容に現実味を感じる事が出来ない。小便を出し切ると、萎れていく花の微速度撮影のように性器が萎んでいった。亀頭がゆっくりと包皮に隠れて行くのと同時に、ザキは漸く返信のテキストを打った。僕はどの日でも大丈夫です。送信ボタンを押す前に、一行書き足す。
〈明日なら確実です〉
 冷蔵庫から飲みかけの牛乳を出して、パックのまま飲み干した。電話台の上には紗英と二人で撮った写真が飾られている。市役所に結婚届を出しに行った帰り、植物園に行った時の写真だ。季節は初夏で、背景の薔薇園にいくつかの花が咲いている。
 曖昧なままにしたくなかった。結婚式も新婚旅行もやってやれなかった。ザキは全く様にならないファイティングポーズをきめて、何に対してなのか自分でも分からないワンツーを、三回繰り返した。

12
 いよいよか。その場にいる全員が同じ事を考えて、背筋を正すのが分かる。ロールが変わって何駒か、抽象的なフラッシュが入る。カメラの駒数が安定し、カチンコの合わせ目が閉じた瞬間に開く。主役の少年の口元が、大きく息を吸った後、文字に表せない激しい音を発する時の形に開く。膝の裏側に十分に蓄えられた力は一気に解放され、飛び出した彼の体は真っ直ぐに相手に向かって行く。迎撃する相手の拳を左腕で払う。同時に繰り出した右拳も、相手にブロックされる。そんな拳のやりとりが、何回か続く。やがてお互いの拳は、少しずつ顎を捉え始める。相手は少し距離を取って血の混じった唾を吐き、主役の少年も同じ事をする。拳の応酬に今度は蹴りが加わる。強烈な相手のパンチを側頭部に受ける。よろめいた主役の少年は倒れる寸前で踏み堪え、また激しく口を開いて地面を蹴る。跳び上がって突き出した両足が、相手の胸元にめり込んでいく。自動車事故の実験で使うダミー人形のように、意識のとんだ頭部は地面で静かにバウンドして、小さく痙攣した後、動かなくなった。死の原因になった衝撃。その瞬間が映ったフィルムを、現像所の試写室で観ている。試写が終わって室内灯が付くまで、石川咲子はじっとスクリーンを見詰めていた。小学生の姿は、一駒も映っていなかった。
 映画の撮影は中止になり、事故後間もなくスタッフルームは閉鎖された。殆どのシーンを撮り終えていたフィルムは編集される事のないまま現像所に管理され、監督が自費で現像代を支払わなければ、こうしてラッシュを観る機会もなかっただろう。
 誰もが焼香の後のような足取りで、試写室を出て行く。ロビーの喫煙所で監督が無念そうに煙を吐く。その横を会釈で通り過ぎて、咲子は現像所の建屋を出た。
 小学生の姿は、一駒も映っていなかった。
 その事が何を示唆しているのか、そもそも自分は一体何を知りたいのか。咲子は混乱する思考を整理する時の癖で、擦れ違う車の車種とナンバーを記憶していく。タクシーと交錯する瞬間には、後部座席に不自然な小学生がいないかどうかを確かめる。新堀ギターの看板がないか、視野を広くしてたまに左右を見る。そして彼女は首を振る。明らかにどうかしている。駅の改札を潜る。電車を待つ間に、咲子は覚えた車の車種とナンバーを、一台ずつ思い出して行く。記憶力は衰えていない。頭に浮かぶナンバープレートの数字を足してみる。17。6。21。14。計算も問題ない。肩胛骨の間を蛞蝓のような汗が下りていく。硝子に映る乗客の中に、二人組の小学生がいる。黒い学童服に黒い学帽を被ったその姿は、私立に通うお坊ちゃんにも見えて、同時に、死神でないと否定も出来ない。咲子は俯き、小学生を視界から外した。いくつかの駅を過ぎて顔を上げると、いつの間にか彼らは消えていた。一週間後には、新しい映画の読み合わせが始まる。もしこれが心の病気ならば、忙しくない今の内に医者に行って置くべきだろう。今どき心療内科の病院なんて、東京ならどこの駅にでもありそうなものだ。咲子は溜息で前髪を吹き上げた。もしちゃんとした答えが出せる医者がいるとしたら、その人は神だ。自分は少しも狂ってなんかいない。32。電車に乗る前に見た最後のナンバープレートを足し終わり、改札を潜る。3280。プリペイドカードの残額は記憶している。ロータリーを通過していく黄緑色のタクシーに、小学生は乗っていない。
作品名:ランドセルの神さま 作家名:新宿鮭