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ギャロップ ――短編集――

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【カナヅチ】



 朝から降っていた雨は、昼過ぎにはやんでいた。水たまりが所々に残っているが、歩くだけなら何ら支障はない。雲はちらほらと浮かんでいるけれど、雨雲には見えないから、今日はもう降らないだろう。
 学校からの帰り道。怠けずに歩道橋を上って前を見たら、夕日が正面から私を照らしていた。眩しさに思わず目を細める。なんだか無性に腹が立って、大手を振ってずんずん歩いた。手すりに捕まって階段を見下ろしたら、今までの威勢はどこにいった――と言われそうなほど、足がすくんで動けなくなってしまった。
 顔面が強張る。
 指先が冷たくなった。急いで手を擦り合わせたが、それぐらいでは埒があかない。

「今、帰り?」
 後ろから肩を軽く叩かれて、大袈裟ではなく本当に身体がはねた。
「ああ――ごめん、ごめん。そんなに驚かしちゃった?」

 心配そうに私の顔を覗きこんでくれたこの人は、斜向かいに住んでいるミナさん。半年ほど前、旦那さんと別れてまた斜向かいの家に戻ってきた人だ。

「――ミナさんか。ちょっとボーっとしてて」
「大丈夫? なんか沈んだ顔してる」
「沈んだ顔……ですか。沈みそうなんです。溺れる寸前、かも。水泳、得意なはずなんですけどね。だけど突然、息継ぎの仕方を忘れちゃったんです。いつかはしないと、溺れちゃうのに。わかってるんですけど、どうやって息継ぎしてたのか、忘れちゃったんですよ。だったら、溺れるまでは泳ごうかなって……。階段の下の水たまりが、底なしに見えるんですよ。あれを越えても、あっちにもこっちにもあるし。いつかは足を取られちゃうのかな、なんて考えたり」
 うまく笑おうと力を抜いたつもりだったけれど、強張っていた顔の筋肉は、そんなに簡単に動いてはくれなかった。目の下がピクピクッとひきつって、乾いた唇が引っ張られる。

「じゃあ、これ貸してあげる」
 胸の前で擦り合わせていた手に、真っ赤な傘がかけられた。問うようにミナさんの方を見ると、三段ほど降りたところでおいでおいでと手を振っている。呼ばれるままに階段を下りると、傘を持つ左手首を掴まれて、最下段までゆっくり誘導された。
 私の手首を握ったまま、赤い傘の先で水たまりをつっつく。そしてミナさんは、その真ん中に立つと、柔らかく笑った。
「案外、深かったわ。靴下、濡れたな――でも、底なしじゃないよ」

 思わぬ衝撃に、はあ、と間抜けた返事をしてしまった。ミナさんは、それだけー、と不満そうに言う。その言い方が、年上の女性のものとは思えずに、うっかり吹き出してしまった。案の定、ミナさんはそれにも不服申し立てします、と鼻息荒くおどけて言った。
「溺れるまで泳がなくたって、ちょっと引き返したらいいんじゃない? ビート板使うとか? 浮き輪は? 足の届くとこで、一息いれたり。底が怖いなら、最初に底を覗くために潜ってみたり」オレンジ色に染まった歩道橋の上を指差して、ミナさんは整った眉を持ち上げた。「あそこからじゃ、この水たまりの深さはわかんないよ」

「ミナさん、強いですね。弟子にしてください」
 私がそう言うと、出戻りをなめるなよ、と肩口を小突かれた。
「弟子は――ね。高校生にバツイチ女が何を教えてるんだと、怒られそうだから。でも、話は聞いてあげれるよ。しゃべりたくなったら、いつでもどうぞ」
「――はい、ありがとうございます。ミナさんは、私のビート板ですかね」
「わたし、カナヅチだよ。泳ぎ、全くダメ。浮くことすらできないから」
 ふふふ、と口元に手をやって笑ったミナさんが、私の手を引いたまま歩きだす。もう一つの心強い案内者になった真っ赤な傘を見た。あ、傘、学校に忘れてきた。
 まあ、いいか。雨は、やはり降りそうにない。

 ミナさんが進むたびに、足元から湿った音がした。私はまた、その音にうっかり吹き出してしまった。



◆お題:『夕方の歩道橋』で、登場人物が『溺れる』、『傘』