揺り籠の詩
静かで日差しも暖かくてキラキラしていて、ああ此処なら夢も見ずに寝られるかもなんて、ぼんやりと考えながら達也は首を窓側に向けたまま机に突っ伏した。
夢に怯え魘されながら起きるのは、この時期だけとはわかっていてもそれなりに苦痛で、おまけに睡眠時間がいつもより少なくなる。
眠れるならば少しでも眠りたかった。
目を閉じても完全な闇は訪れず、瞼越しに光が差し込んでくる。
夢の中のような暗い色とは違う柔らかな赤に、達也は安心して睡魔に身を委ねた。
どれくらい寝ていたのか、すぐ隣の席で椅子を引く音がして達也は目覚めた。
「あ、落合起きたの? おはよ」
「…………はよ」
短時間ではあったもののどうやら夢も見ずにぐっすりと眠れたらしい。
教室はいつの間にか人で溢れている。
時計に目をやると朝の会の十分前だった。
家よりも学校での方がよく眠れるなんて困ったものだと、大きく欠伸をしながら達也は思う。
「よく寝てたねー、昨日寝るの遅かったの?」
「まーな」
隣の席の谷田が鞄の中から教科書や筆箱を出しながら笑う。
「どーせゲームでもしてたんでしょ。さ来週のテスト大丈夫なのー?」
丁度兄の命日の前後にある中間テストという名の悪魔が迫って来ているのを忘れていたわけではないが、殆ど勉強していなかったのは事実である。
母親の怒り狂う顔を思い浮かべて、達也の背中に冷たい汗が伝った。
悪いことはいつだって重なってやってくる。
「ばっか、俺が本気出したらテストなんて十秒で終わるぜ」
「どうせ名前以外は白紙で、でしょ」
みえみえの強がりの言葉は、ばっさりと切り捨てられて地に落ちた。
事実なので何も反論しようがないのが悲しい。ならばお前はどうなんだと言いかけて、谷田が常に学年の中で二十位以内に入っていることを思い出す。
きっと頭の作りが最初から違うんだ、こういう人種の脳みそは特別製なんだと、達也は自分を慰めて、なんとなく空しくなった。
「授業中に寝てるから赤点なんか取るんだよ」
ボーダーは三十点、前回のテストでは二教科ほどそのラインを越えられなかった。
達也は谷田に点数を教えた覚えはないのだが、隣の席なので見えたか、女子の情報網に引っ掛かったのだろう。
「うっせ、睡眠学習だっつーの」
「全く成果はないみたいだけどね」
苦し紛れの言葉は、やはりざっくりと切り捨てられた。
もう少し言い様があるのではないかと恨めしげな視線を向ければ、返ってくるのはくつくつと喉奥で殺しきれずに漏れ出す笑い声だけだ。
視線を強めればますます笑いの発作は酷くなるようで、それが面白くない達也はふんっと鼻を鳴らすと黒板の方を向いた。
谷田はそんな子供じみた態度を取った達也を見て、椅子に座った後も担任が教室に入ってくる少し前までずっと笑っていた。
「でもね」
朝の会の途中、日直と担任の声に混じって谷田は達也に小さく囁いた。
「最近の落合、顔色っていうか表情っていうか、変だよ。暗い……って言えばいいのかな、何かヤなもんでも見たの?」
嫌なもの、そう言われれば当然達也の頭に浮かぶのは此処最近ずっと見ている悪夢である。
散々達也を笑っていた割には気になっていたらしく、谷田の視線には好奇心とも心配ともつかない色があった。
「ちょっとな、最近毎晩死体を見てんだ」
達也にとっては掛け値なしの真実だったが、谷田ははぐらかされていると受け取ったらしく、ふぅんと気の抜けた返事をすると頬杖をついて顔を廊下に向けた。
どうやら理由を聞き出してわざわざ詮索したりする気はないらしい。
ただ日直の号令で朝の会が締められ教室がざわめき始めた頃、彼女は天気の話をするような平坦な声で達也に尋ねた。
「じゃあさ、死体は何処?」
その言葉に夢がフラッシュバックする。
赫い夕焼け、紅い花、朱い地面、赤い水溜り、アカい世界、
―――嗚呼、此処は何処で、其処に佇んでいるのは誰?
わからない わからない わからない
ほ ん と う に ? ―――
「さあな、知らねーよ」
何かを否定するように、発した本人が驚くような強さの言葉を聞いて、谷田は何かを感じるようでもなくただ興味を失ったように、そう、とだけ呟いた。
場所がわからないというのは不思議な話だが本当のことだった。
ただ確実に言えることは、家からそう遠くはなく、子供がそれなりに遊べる広さを持ち、赤い奇妙な花が群生している空地のような場所だということだ。
学校帰りに自転車を漕ぎながら、達也はその場所を探してみようかと思い立った。
別に現場検証をして犯人を捜すといった探偵ごっこがやりたいわけではなく、夢の在りかが知りたかった。
時期も近いし夢に出る花も咲いている時期だろうと、達也はいつもの道から少し逸れて適当な小道に自転車を漕ぎいれた。
もしかしたら空地は買われて家などが建ってしまっているかもしれないとも考えたが、誰が好き好んで殺人現場に家を建てるだろうか。
引っ越してきた者が知らず土地を買ったという可能性も否定できないが、まだ空き地が残っていることに達也は賭けた。
自転車のペダルをゆるゆると、大した力も込めずに踏む。
普通に歩く速度よりもやや速く、しかしいつもの自転車の速度よりは格段にゆっくりとした動きで自転車が進む。
見知らぬ家、コンクリートの塀、すれ違う人に少し頭を下げ挨拶しながら周りを観察する。
変わった苗字の家を見つけて笑い、玄関先に繋がれている犬に吠えられた。
かなり古そうな家を見ていたら窓にダンボールが貼ってあって、誰も住んでいないことがわかった。
「やっぱすぐには見つからないか」
いくら進んでも見覚えのある場所には辿り着けず、やがて達也は足を止めた。
夏よりも日の短くなった空が赤銅色に染まっている。
そろそろ家に帰らないと、仕事に行っている母親が帰ってきてしまう。
部活に入っていないはずの達也の帰りが遅くなれば心配するだろう。
自転車から降りて方向転換する。
再び自転車に乗ってから、元来た道を、今度は力強くペダルを踏んで進み始めた。
ダンボールで目張りのされた家も、犬がいる変わった苗字の家も、目を留める間もなく通り過ぎる。
両横を塀に挟まれた道を抜ければ、いつもの通学路に出た。
まっすぐ進めば家、右に曲がればとある少女が住む家へと繋がっている。
僅かな葛藤ののち、達也は自転車を漕ぎ出した。
もう一人の被害者の元へと。
「たっちゃん!」
よく見知った人に案内され通された先にいたのは、昔と変わらぬ、いや、あの頃よりも幼くなってしまった幼馴染の少女だった。
あの日あの場所にいた彼女は、強いショックにより心が現実を拒絶したのだ。
犯人の言葉の通りに、全てを忘れて。
「たっちゃんだ! こんにちはっ!」
「よお、こんにちは」
きゃいきゃいと歓声を上げて懐いてくるこの幼馴染ならばあの事件があった場所を知っているかもしれないと達也は考えていた。
「あやね、ゆうくんとたっちゃんがくるのまってたのよ」
未だ兄が生きていると思っている幼い彼女に真実を告げる勇気もなく、達也は無理に笑ってみせる。
中学生の体に幼子の精神を宿した少女は楽しそうに純粋な笑みを浮かべた。
「たっちゃん、きょうはあやとあそんでくれる?」
「何して遊ぶんだ?」