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揺り籠の詩

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その時、赤く染まった世界が全てだった。
立ち尽くす少年、それよりも年が幾分か上の少年が地面に崩れ落ちる。
そして倒れた少年の前に立つ誰かの後ろ姿。
夕日の逆光で少年からは顔が見えない。
しかしその誰かの手に握られた濡れた刃物が、てらてらと光を反射しているのだけは見えた。
そしてそれが何故濡れているのか、少年は知っていた。
背の高い花が微かに吹いた風に揺れている。
三人は動かなかった。
いや、倒れ伏す少年に関しては動けなかったと言うべきか。
少年からは倒れている少年が生きているのか確認できない。
ただその体を中心に広がっていく黒い水たまりが段々と勢いをなくしてゆくのが、少年にはとても恐ろしく感じられた。
がさりと、背後からの音に少年はとっさに振り返った。
幼馴染の少女がいた。
トイレに行くとその場を去ったはずだったのに、最悪のタイミングで帰ってきてしまった。
「ゆうくん……?」
少女の視線は真っ直ぐ、倒れ伏した少年に注がれていた。
危ないと、少年が言う前に少女は赤い花を蹴散らしながら倒れ伏したその体に駆け寄ってしがみついた。
「ゆうくん、ゆうくん! どうしたの!? 起きてよ!!」
刃物を握った誰かは、そっとしゃがみこんで少女に何かを囁いた。
少女は目を見開いてその誰かの方を見つめる。
今度は少年にも聞こえた。
しかしその声はノイズが混じっているように不鮮明だった。
男なのか女なのかもわからない。
「今日ここで見たことは忘れなさい」
ふるふると顔を横に振る少女に、その誰かは繰り返して言った。
「忘れなさい、全部忘れなさい」
茫然と、何度も繰り返される言葉を聞くたびに少女の大きな瞳からは光が失われてゆく。
やがて声もなく頷いた少女をおいて、その誰かは立ち上がった。
こちらを向いたその顔はやはり、少年には見えなかった。



眠っていた達也は上半身を勢いよく起こした。
九月の少し肌寒い時期だというのに、パジャマ代わりのTシャツは寝汗でじっとりと湿っている。
「……っくそ」
最悪の夢見に悪態をついてから、体の上の布団を退かす。
カーテンを開くと、まだ太陽さえ顔を出していないせいで薄暗い空が見えた。
部屋の壁に掛った時計の短針は5を指している。
起きるには早すぎるが、かといってもう一度眠りにつく気にもなれなかった達也は仕方なしに起き上がった。
この時期になると同じ夢を見る。
三年前から続く悪夢。
あの日が過ぎるまで終わらない。
「あと、二週間か……」
まるで忘れるなと言わんばかりに繰り返されるそれは単純に脳内で作られた映像ではなく、三年前に実際に体験したことだ。
あの日血濡れた刃物を持って佇んでいた誰か、駆け寄った幼馴染の少女が失ったもの、倒れ伏した少年、達也は全て見ていた。
「そろそろ成仏してくれよ」
兄貴と、続いた声は朝の静謐な空気に溶け込んで消える。
二週間後のその日は、達也の兄の命日だった。



中学校の制服である学ランは亡くなった兄のお下がりだった。
お下がりといっても、実際のところ達也の兄である祐介は半年しか着ていなかったので奇麗な状態だった。
今では二年生になった達也の方が着ている期間が長いくらいだ。
祐介が着ていた頃にはなかった裾の綻びや襟元の汚れも全て、自分が一年間この制服を着ていた証だと達也は考えている。
「はよー」
「おはよう、今日も早いわね」
リビングに降りるとタンタンと包丁とまな板が一定のリズムを保ちながら音を奏でていた。
味噌汁の具でも刻んでいるのだろう。
達也は台所に立つ母親の姿をできる限り視界に入れないで済むよう、テレビを点ける。
別段母親と仲が悪いというわけではない。
ただ夢見の悪かった朝から早々に刃物を扱っている人間を見たくはなかった。
少なくとも達也には自分の精神を追い詰めて喜ぶ趣味などない。
そういう趣味の持ち主をマゾヒストと呼ぶのか自虐趣味者と呼ぶのだったかと首を捻って、どちらにせよ朝から考えるほど健全なことではないとテレビへと意識を移した。
だが朝からやっている番組といえばニュースばかりで、こちらも健全とは言い難い。
まだ中学生である達也の関心は当然ニューヨークの株価市場などよりもスポーツ情報にあるのだが、如何せん少々時間が早すぎたらしく、やっているのはつまらない政治関連の話や事件速報程度だ。
薬にも毒にもならないようなニュースを見ていると達也はいつも警察の無能さを感じる。
なんせ子供のあやふやな証言とはいえ、時間や場所が特定されている犯人を捕まえられずに三年も過ぎてしまったのだから。
その間に色々なものが変わった。
二つ離れていた兄の年齢を追い越し、悲しみは消化され時折面影を感じては込み上げてくるだけの僅かな寂しさと喪失感が残るばかり。
行き場のない犯人への怒りは、虚ろなまま霧散しつつある。
きっとあと五年もすれば、たとえ犯人と直接顔を合わせたとしても、きっと何も感じないだろう。
いずれ夢もぼやけて、何の夢かもわからなくなるのだろう。
時の流れは残酷だ。
特に、まだ若い達也にとっては。
『――先日の千代田区での女性の変死事件について、詳しい情報が――』
ニュースが耳から入って右から左へと流れてゆく。
自分と、あと周囲の人間に危害が加わらなければどうだっていい。
誰だってそうだ、殺人事件に自己投影して見る奴なんてそうそういないだろう。
それとも他人事だからこそ好奇心を示すのだろうか。
兄が死んでからこちらを憐れんだように見て、陰で噂し続ける近所の大人のように。
『――警察によると凶器は長いロープのようなものとの事で、現在は――』
そう言えば結局あの刃物はなんだったのだろうか。
包丁か、ナイフか、確か凶器は未だ発見されていなかったはずだ。
ふと浮かび上がった疑問は、ぼんやりしている息子の名を呼ぶ母親の声と漂ってきた朝食の香りの前にかき消される。
「達也、御飯よ」
「はーい」
平穏は優しい惰性を生み出すが、その裏側にはいつだって恐怖と喪失が隠れていることを知っている。
だからこそ彼らは、去年父親が外に女を作って出て行ったことさえも平凡な毎日の中に埋没させて暮らしている。



まだ人の少ない職員室から鍵を借りて教室を開ける。
誰もいない教室は普段の騒がしさから一変し、差し込む朝の日差しと冷たい初秋の空気によって、何処か神聖さすらも感じられるような奇妙な空間になる。
別段真面目というわけでもないが、この時期になると達也は誰よりも早く教室に来る。
単純に、朝食を摂ってからいつまでも家にいるのは退屈で仕方がないからだ。
とはいったものの教室に早く来ても特にすることはなく、ただぼんやりとしているか、時折学級文庫に手をつけてみたりするぐらいだ。
席は廊下側の後ろから二番目、誰かが来ればすぐにわかる。
カタンと、達也の椅子を引く音が教室に響いた。
この瞬間がなんとなく達也にとってはいつも気まずい一瞬だった。
一つの完成された空間を壊してしまったような気になる。
椅子に座って窓側に目線を向けると、空気中の埃が帯状に差し込む太陽の光に照らされてキラキラと輝いていた。
作品名:揺り籠の詩 作家名:真野司