柔らかな傷痕
ぐいっと、力強く手を引かれた。
つい振り返る。
引っ張られた手の痛みに眉を顰めることすらできず、私はあの男を見てしまった。
その表情は、その視線は、その笑顔は……!
見たことがある気がしたのも当然だ。
あの男の顔に宿っていたのは、狂気。
私が、姉さんに向けるのと同じ、届かない人への恋に狂った人間の浮かべる、おぞましい執着だった。
この男は全部知っていたのだと、私は悟った。
姉さんへの私の想いも、私が姉さんの想いを利用しようとしていたことも、自分に向けられる憎しみも、全部。
「キミのことが好きなんだよ」
言われるまでもなく、見ればわかった。
こいつは私だ。
実の姉に想いを寄せる私、そんな私に想いを寄せる男、男に想いを寄せる姉さん。
なんと上手くできた喜劇なのだろう。
誰も幸せになんかなれるはずがない、それなのに……。
不毛なことだと知っていても、どうして自分の想いを偽ることができるだろうか。
「キミは、ミレーヌが大切だろう?」
ミレーヌ、誰よりも愛しい私の姉さん。
その名が男の口から出るだけで、男のことがこれ以上ないほど憎らしく思える。
大切だなんて言葉では言い表せないほど私が姉さんに依存していることを知っているくせに。
全部知りながらも、男は囁いた。
「もし、例えばの話しだけれど、ミレーヌが大勢の男に襲われたら、キミはどうする?」
町の男のリーダー格である男の口から出たその言葉は、私にだってわかる、あからさまな脅迫だ。
何が欲しいのか、なんて、言うだけ無駄だ。
私は男が欲しているものがなんなのか、はっきりとわかっている。
声を出す代わりに、私は扉を掴んでいた手を離し、男の頬に伸ばした。
それは契約だった。
姉さんを守るため、いや、私の独占欲を満たすためだけに、男と契約を交わす。
姉さんを他の誰かの手で汚されたくないという、ただの我侭なのだ。
私は男の薄く乾いた唇に、自分の唇を重ねた。
本当に欲しかった人を裏切って、私は自分の独占欲と、姉さんを守るという自尊心を満たした。
その日から恐ろしい速度で話が進んでいった。
男が一言「わかっているよね」と言うだけで、私は何でも従った。
男と私の関係に愛情はなかった。
あったのは一方的な憎悪と執着だけだった。
私には何故あの男が私を欲したのか理解できなかった。
ただ、男に対する私の負の感情は同属嫌悪とあいまって、ますます深くなっていった。
それでも私は、あの男に逆らうそぶりを見せることだけは決してしなかった。
あの男の両親に紹介され、友人達に会い、すべてを笑顔でくぐり抜けた。
けれども、姉さんに真実を欠いた事実を話す時、その時だけは笑顔を浮かべることはできなかった。
できるわけがないのだ。
私の我侭で絶望する姉さんを、見たくなんてなかった。
これは罰なのだろうと、私は漸く気付いた。
自分のやりたいようにやって、姉さんを傷つけるということをわかっていて、それでも進むことを止めようとはしない私に対する罰なのだ。
後ろにいる男に促されて私はいつものようにドアを開いた。
手が震える。
姉さんの小さな後ろ姿が、今は遠い。
振り返った姉さんは、いつものように静かに微笑んで私に「お帰り」と言った。
その優しい声が、私の胸を抉っていった。
泣きたいような気持ちで私は自分でもわかるぐらいにたどたどしく「ただいま」と声に出した。
途端に心配そうに歪められた姉さんの顔を見て、私は泣きたくなった。
何故私はこの優しい人を、私自身にはその意思はないとはいえ、裏切るようなことをしようとしているのだろう。
どうして私は、妹という立場で満足できなかったのだろう。
幾ら後悔しても足りないけれど、動き出してしまった歯車は止められない。
私にできることは、姉さんに迷惑がかからないよう精一杯自分の役割を果たすだけなのだ。
「どうかしたの? なにか、あったの?」
不安と心配に顔を染めた姉さんに首を振り、なんでもないことを伝える。
なんでもないわけ、ないというのに。
こうして私はまた小さい嘘を重ね、戻れなくなってゆく。
それでもいい、私はもうどうなってもいい。
たとえ父さんや母さんがいる天国に行けなくなっても、地獄の業火にこの身を焼かれることになっても構わないのだ。
それが私の業で、私の罪に相応しい罰の在り方であるならば。
私と、後ろにいた男が椅子に座ると、姉さんはお茶を淹れようと席を立った。
私はその腕に縋って姉さんを引き留める。
きょとんとした姉さんに、大切な話があるから聞いてくれるように頼むと、姉さんは戸惑ったように頷いた。
神妙な面持ちで席に着いた姉さんに男が声を掛ける。
「ミレーヌ」
名前を呼ばれた姉さんはゆるゆると顔を上げた。
美しい深緑の瞳が絶望に染まるのを見たくなくて、私は姉さんから顔を背けた。
男はそんな私に視線をやってから、残酷な言葉を吐き出すために口を開いた。
「俺と別れてほしい」
息を呑む気配がして、それから深い吐息が聞こえた。
何故そんなことを言い出したのか、何故私とこの男が一緒に居るのか、事実の欠片に気付いてしまったのだろう。
姉さんの声は、酷く震えていた。
「……いつからなの?」
いつから騙していたのか、いつから裏切っていたのか、言外に尋ねられた事柄に胸が痛む。
本当は、怒鳴りつけたいぐらいに荒れているだろう感情を押し殺して尋ねる姉さんの声は静かだった。
そんな姉さんが痛ましくて、愛おしかった。
一ヶ月前からだと男が言うと、姉さんは悲しそうな顔で俯いた。
誰もが口を閉ざし、場に沈黙が重く圧し掛かった。
それぞれの思惑が交差する空間で、口火を切ったのは姉さんだった。
いびつな笑顔が悲しかった。
「絶対に、妹を幸せにしてください……」
絞り出したような声だった。
虚ろな事実が、姉さんの中での掛け替えのない真実に変わってしまった瞬間だった。
男が口の端で小さく笑んだのを私は見た。
その笑みはすぐに排除され、代わりに穏やかな、人の良さそうな笑顔を浮かんだ。
「わかった、約束しよう」
何を、約束するというのだろう。
私から言わせてもらえば男の言葉は酷く白々しいものだった。
誠意など欠片もない、ただの音の羅列に過ぎない。
思い通りになったと哂う男の、何処に誠意などというものがあるというのだろうか。
こうして、男の計画は順調に進んでいった。
男は姉さんを懐柔し結婚まで納得させた。
それで私が幸せになれるならばと姉さんは承諾したらしい。
幸せになんて、なれるはずがないのに。
私の幸せはいつだって姉さんと共にあった、姉さんがいてくれれば幸せだった。
姉さんの寝顔を覗き込むと熱い想いが胸を締め付ける。
あの男とは対照的な柔らかそうなピンクの唇に触れることはできない。
私の唇は嘘と黒い契約でもう汚れてしまった。
その名を声に出して呼ぶことも、私にはできない。
ミレーヌ、ミレーヌ、私だけの愛しい姉さん。
父さんがいた幸せな時間に戻れないのならば、二人だけの幸せな箱庭にいられないのならば、いっそ死んでしまえばよかったのかもしれない。
羊水のような優しい生温かさに浸れていたあの頃がとても懐かしい。
過ぎゆく日々を、私は過去に想いを馳せることで乗り越えていった。