柔らかな傷痕
私たちは三人で生きていた。
母さんは私を文字通り命がけで産み落としてくれたらしい。
一度も私をその腕で抱くことなく亡くなったそうだ。
その話を聞くたびに私は、私が生まれなければ母さんは死なずにすんだんじゃないかと思うのだけれど、その事は決して口には出さない。
本当は一度だけ言ったことがあるけれど、姉さんも父さんもこれ以上ないほど悲しそうな顔をしたから。
その時、二度と言わないと決めた。
生活は本当に貧しくて、でも楽しかった。
父さんは畑で農作業、姉さんは母さんの代わりに家事をしたり私の世話を見てくれたりした。
私は力強くて優しい父さんが大好きだった。
三歳しか違わないのに何でも出来る姉さんが大好きだった。
ずっと幸せだった。
父さんが死ぬまでは。
父さんが死んだ時、姉さんは泣いた。
私はというと、全然涙が出なかった。
だって父さんは、本当は早く母さんの所に行きたかったのに、私たちがいたから生きてきた。
二人の娘は母さんが残したものだから、母さんの分まで面倒をみなきゃいけないから。
父さんは病気になって、やっと母さんの所に行けるって思ってた。
知っていた、わかっていたの。
だって父さんは一途な人だったもの。
私の胸の中に、悲しみは湧いてこなかった。
ただ、姉さんと二人になってしまった生活に思いを馳せていた。
女二人きりという生活は以前にも増して厳しいものになるだろう。
経済的にも、肉体的にも。
私は静かに涙を流す姉さんを見た。
長い睫毛に付いた水滴がキラキラして、その奥に隠された私よりも深い緑に目が吸い寄せられる。
瞬きをする度に零れる涙が、白い頬を伝って顎から膝に落ちた。
血管が浮き出る日焼けした手を、水仕事で荒れた細い手が包み込む。
窓から射し込む光に照らされ父だったモノの横に佇む姉さんは、見慣れた私でもはっとするほど美しかった。
ときんっ、と、心臓が跳ね上がったのを感じて、私は胸に手を当てた。
思えば、それが始まりだったのだ。
生活はやはり苦しいものがあった。
今までは父がいたからどうにか成り立っていたのだ。
畑を耕してもビクともしない腕も、川から大量の水を運んでも大丈夫な足も、私たちにはない。
家事には長けているけれども力仕事には慣れていない姉さんと、何もできない役立たずな私。
貧しい生活に、いっそ体を売ろうかと思ったことさえある。
でも、そんな時に限って、姉さんは私に微笑んだ。
「大丈夫」
「私が貴女をきっと幸せにしてみせる」
「だって私は貴女の姉なのだから」
「だから、まだ諦めないで」
姉さんの声と笑みが私を救い、姉さんの言葉が甘い痛みで私の心を縛り付けた。
だから私はどんなに絶望的な時も希望を失わなかった。
いつしか、私の希望は姉さんの存在そのものになっていた。
姉さんだけが私の心の支えで、姉さんがいれば他には何もいらなかった。
日々、私は姉さんに対する依存を深めていった。
満足な生活とは言えなかったけれど、不思議と心だけは満ち足りていた。
二人だけの不便な生活は、逆に言えば誰にも邪魔されず姉さんを独占できる時間が増えたことを意味した。
ただ一つ、気がかりなことがあった。
私の幸せを願う姉さんの口から、自分も幸せになりたいという言葉が出ないことだ。
妹の私は姉さんを幸せになんてできないのだろうかと、「私は貴女の姉だから」という言葉を聞く度に思った。
私じゃ姉さんを幸せにしてあげられない?
私が女で、姉さんの妹だから?
私がもし男で、姉さんを血が繋がっていなかったら、私は姉さんを幸せにできたの?
姉妹でもなかったらこんなに姉さんを愛おしく思うこともなかったかもしれないのに、全ては仮定でしかないのに、私は唇を噛み締めた。
いつの日か私は姉さんに恋慕の情を覚えていたのだ。
それが禁忌だと知っていてもなお、自覚した想いは降りしきる雪のように、静かにしんしんと、心の中に積っていった。
姉さんの視線の先にいる男を私は知っていた。
町に出る度にあの男を目で追う姉さんの姿を、私はずっと見ていた。
男のことは調べようとしなくても自然と耳に入ってきた。
その素行の悪さも、女癖の悪さも、親の立場を利用しての数々の行為も知った。
けれど私はあえて姉さんに何も教えなかった。
他の人と話すのが苦手な姉さんは、あまり町の噂を知らなかったのに、私はあの男を好きになっていく姉さんを黙って見ていた。
あの男に弄ばれて泣いて帰ってくればいいと思った。
そうしたら私が慰めてあげるのに。
姉さんは最後には私の所に戻ってくるという自負があった。
だって姉さんは絶対に私を見捨てられない。
私とあの男のどちらかを選べと言われたら、姉さんは私を選ぶ。
どんなに辛くても、絶対に。
だから嫉妬で狂いそうな気持ちを押さえ込んで、私は姉さんを見守り続けた。
姉妹であることを恨みもしたけれど、その血の繋がりすらも利用しようとする自分が、酷く醜い生き物に思えた。
でも、何に換えても、私は姉さんが欲しかった。
目論見どおり、あの男は姉さんに近づいてきた。
姉さんを手に入れる為とはいえ、気分がいいものではない。
苦々しい思いで私は二人を見ていた。
清らかな姉さんにあの男の穢れた手が触れる度、私は叫び出したくなった。
姉さんは私のものなのに、私だけの姉さんなのに!
そんな思いが頭を駆け巡った。
姉さんがあの男に微笑みかける度に、あの男への嫌悪感がつのっていった。
嘘くさい笑み、苦労知らずの白い腕、血色のいい顔、全部が憎らしくてたまらない。
私がずっと欲しかったものを、あの男は全部持っているのだ。
姉さんを支えられる太い腕も、姉さんを養っていけるだけの財力も、姉さんを包み込める身体も、姉さんの心さえも。
羨ましかった。
嫉ましくてたまらなかった。
計画が崩れたのは、忘れもしない、あの男の行動によってだった。
風が強く、酷く天気の悪い日だった。
姉さんは畑の野菜の様子を見に行っていた。
私も一緒に行きたかったけれど、まだ洗い物が残っていたので家にいた。
それが悪かったのかもしれない。
あの男が突然我が家に現れたのだ。
別に珍しいことでもなかったので、私は嫌悪感を押し殺しながら姉さんの不在を伝えた。
男は「そうなのか」とだけ言って笑った。
その笑みに私は寒気を感じた。
裏のある笑い方だった。
何故だろう、私はその表情によく見覚えがあるような気がした。
嫌な予感がして、私は姉さんを呼んでくるという名目で外に出ようとしたが、男は相変わらず笑いながらそれを制した。
扉に掛かった右手、男に掴まれた左手。
何よりも沈黙が怖かった。
「ねぇ」
先に声を出したのは私の手を掴んだままの男だった。
私に話し掛けているということは自明のことであったが、私は振り向かなかった。
いや、振り向けなかったのだ。
初めてあの男の存在に恐怖を覚えていた。
姉さんに近づけるべきではなかったのだと、漸く私は自分の浅はかさに気付いた。
「知ってたかい?」
何をだと、言葉を返す余裕さえもなかった。
逃げ出したくて堪らない。
掴まれている手から、体温が奪われていくような気がした。
あの視線が私の背中を貫いて、心の中まで見透かされているような感覚に襲われる。
「俺は、ね」
母さんは私を文字通り命がけで産み落としてくれたらしい。
一度も私をその腕で抱くことなく亡くなったそうだ。
その話を聞くたびに私は、私が生まれなければ母さんは死なずにすんだんじゃないかと思うのだけれど、その事は決して口には出さない。
本当は一度だけ言ったことがあるけれど、姉さんも父さんもこれ以上ないほど悲しそうな顔をしたから。
その時、二度と言わないと決めた。
生活は本当に貧しくて、でも楽しかった。
父さんは畑で農作業、姉さんは母さんの代わりに家事をしたり私の世話を見てくれたりした。
私は力強くて優しい父さんが大好きだった。
三歳しか違わないのに何でも出来る姉さんが大好きだった。
ずっと幸せだった。
父さんが死ぬまでは。
父さんが死んだ時、姉さんは泣いた。
私はというと、全然涙が出なかった。
だって父さんは、本当は早く母さんの所に行きたかったのに、私たちがいたから生きてきた。
二人の娘は母さんが残したものだから、母さんの分まで面倒をみなきゃいけないから。
父さんは病気になって、やっと母さんの所に行けるって思ってた。
知っていた、わかっていたの。
だって父さんは一途な人だったもの。
私の胸の中に、悲しみは湧いてこなかった。
ただ、姉さんと二人になってしまった生活に思いを馳せていた。
女二人きりという生活は以前にも増して厳しいものになるだろう。
経済的にも、肉体的にも。
私は静かに涙を流す姉さんを見た。
長い睫毛に付いた水滴がキラキラして、その奥に隠された私よりも深い緑に目が吸い寄せられる。
瞬きをする度に零れる涙が、白い頬を伝って顎から膝に落ちた。
血管が浮き出る日焼けした手を、水仕事で荒れた細い手が包み込む。
窓から射し込む光に照らされ父だったモノの横に佇む姉さんは、見慣れた私でもはっとするほど美しかった。
ときんっ、と、心臓が跳ね上がったのを感じて、私は胸に手を当てた。
思えば、それが始まりだったのだ。
生活はやはり苦しいものがあった。
今までは父がいたからどうにか成り立っていたのだ。
畑を耕してもビクともしない腕も、川から大量の水を運んでも大丈夫な足も、私たちにはない。
家事には長けているけれども力仕事には慣れていない姉さんと、何もできない役立たずな私。
貧しい生活に、いっそ体を売ろうかと思ったことさえある。
でも、そんな時に限って、姉さんは私に微笑んだ。
「大丈夫」
「私が貴女をきっと幸せにしてみせる」
「だって私は貴女の姉なのだから」
「だから、まだ諦めないで」
姉さんの声と笑みが私を救い、姉さんの言葉が甘い痛みで私の心を縛り付けた。
だから私はどんなに絶望的な時も希望を失わなかった。
いつしか、私の希望は姉さんの存在そのものになっていた。
姉さんだけが私の心の支えで、姉さんがいれば他には何もいらなかった。
日々、私は姉さんに対する依存を深めていった。
満足な生活とは言えなかったけれど、不思議と心だけは満ち足りていた。
二人だけの不便な生活は、逆に言えば誰にも邪魔されず姉さんを独占できる時間が増えたことを意味した。
ただ一つ、気がかりなことがあった。
私の幸せを願う姉さんの口から、自分も幸せになりたいという言葉が出ないことだ。
妹の私は姉さんを幸せになんてできないのだろうかと、「私は貴女の姉だから」という言葉を聞く度に思った。
私じゃ姉さんを幸せにしてあげられない?
私が女で、姉さんの妹だから?
私がもし男で、姉さんを血が繋がっていなかったら、私は姉さんを幸せにできたの?
姉妹でもなかったらこんなに姉さんを愛おしく思うこともなかったかもしれないのに、全ては仮定でしかないのに、私は唇を噛み締めた。
いつの日か私は姉さんに恋慕の情を覚えていたのだ。
それが禁忌だと知っていてもなお、自覚した想いは降りしきる雪のように、静かにしんしんと、心の中に積っていった。
姉さんの視線の先にいる男を私は知っていた。
町に出る度にあの男を目で追う姉さんの姿を、私はずっと見ていた。
男のことは調べようとしなくても自然と耳に入ってきた。
その素行の悪さも、女癖の悪さも、親の立場を利用しての数々の行為も知った。
けれど私はあえて姉さんに何も教えなかった。
他の人と話すのが苦手な姉さんは、あまり町の噂を知らなかったのに、私はあの男を好きになっていく姉さんを黙って見ていた。
あの男に弄ばれて泣いて帰ってくればいいと思った。
そうしたら私が慰めてあげるのに。
姉さんは最後には私の所に戻ってくるという自負があった。
だって姉さんは絶対に私を見捨てられない。
私とあの男のどちらかを選べと言われたら、姉さんは私を選ぶ。
どんなに辛くても、絶対に。
だから嫉妬で狂いそうな気持ちを押さえ込んで、私は姉さんを見守り続けた。
姉妹であることを恨みもしたけれど、その血の繋がりすらも利用しようとする自分が、酷く醜い生き物に思えた。
でも、何に換えても、私は姉さんが欲しかった。
目論見どおり、あの男は姉さんに近づいてきた。
姉さんを手に入れる為とはいえ、気分がいいものではない。
苦々しい思いで私は二人を見ていた。
清らかな姉さんにあの男の穢れた手が触れる度、私は叫び出したくなった。
姉さんは私のものなのに、私だけの姉さんなのに!
そんな思いが頭を駆け巡った。
姉さんがあの男に微笑みかける度に、あの男への嫌悪感がつのっていった。
嘘くさい笑み、苦労知らずの白い腕、血色のいい顔、全部が憎らしくてたまらない。
私がずっと欲しかったものを、あの男は全部持っているのだ。
姉さんを支えられる太い腕も、姉さんを養っていけるだけの財力も、姉さんを包み込める身体も、姉さんの心さえも。
羨ましかった。
嫉ましくてたまらなかった。
計画が崩れたのは、忘れもしない、あの男の行動によってだった。
風が強く、酷く天気の悪い日だった。
姉さんは畑の野菜の様子を見に行っていた。
私も一緒に行きたかったけれど、まだ洗い物が残っていたので家にいた。
それが悪かったのかもしれない。
あの男が突然我が家に現れたのだ。
別に珍しいことでもなかったので、私は嫌悪感を押し殺しながら姉さんの不在を伝えた。
男は「そうなのか」とだけ言って笑った。
その笑みに私は寒気を感じた。
裏のある笑い方だった。
何故だろう、私はその表情によく見覚えがあるような気がした。
嫌な予感がして、私は姉さんを呼んでくるという名目で外に出ようとしたが、男は相変わらず笑いながらそれを制した。
扉に掛かった右手、男に掴まれた左手。
何よりも沈黙が怖かった。
「ねぇ」
先に声を出したのは私の手を掴んだままの男だった。
私に話し掛けているということは自明のことであったが、私は振り向かなかった。
いや、振り向けなかったのだ。
初めてあの男の存在に恐怖を覚えていた。
姉さんに近づけるべきではなかったのだと、漸く私は自分の浅はかさに気付いた。
「知ってたかい?」
何をだと、言葉を返す余裕さえもなかった。
逃げ出したくて堪らない。
掴まれている手から、体温が奪われていくような気がした。
あの視線が私の背中を貫いて、心の中まで見透かされているような感覚に襲われる。
「俺は、ね」