こえがきこえる
すうっと音を立てて只野が息を吸い込む。吸い込んだ息を言葉にするのかと思いきや、只野はそのままぷはっと吐き出した。そうして何度か無意味に心拍数を上げる深呼吸を繰り返した後、只野は精一杯もったいぶって言った。
「ある日爆弾が学校に落ちてきてその看護婦さんは死んでしまい、この学校に住みつくゆーれいになってしまったのです!」
只野としてはここで俺や木次谷が震え上がるか驚くかを期待していたのだろう。だが、生憎俺はノリに付き合えるようなテンションでもないし、話の流れ上看護婦が死ぬことなど誰の目にも明らかである。木次谷は怪談を怖がるタマでもなければこの程度で驚く奴でもなく、さらに空気など読まない。
ノイズがざざざっと大きくぶれた。先ほどから乱れがちで耳障りである。反応の薄い俺達を見つめ、只野が少し落胆した調子で続ける。
「それでね、看護婦さんは死んでも死に切れなくて、手当てしなきゃいけない患者さんが沢山いるって思い込んで、患者さんを求めてうろうろしているの。血だらけで包帯を持って、怪我してる子を追いかけるの。あたしの話はこれでおしまい」
馬鹿みてえ、と呟くのは辛うじて我慢した。そんなことを言えば只野はたちどころに泣き出してしまう。幼稚園児の子守の気分だ。本当に付き合い難くて仕方ない。眼鏡を押し上げ、木次谷が身を乗り出して只野に聞く。
「近い目撃例は何かないかね?」
「分かんないけど、友達の先輩がそのまた先輩に聞いた話だって」
又聞きもここまで来れば堂に入ったもので、信憑性など欠片もない。木次谷が何やら考察を呟き始める。蝋燭の炎が不安定に揺れ、ノイズがいよいよ大きくなり、俺は苛々を解消するために緩く貧乏揺すりをし始めた。何故か只野がこちらをじっと見つめてくる。蝋燭に下か照らされて白く浮き上がる顔は幾ら普段可愛くとも不気味で、只野の曇らない瞳に真っ直ぐ見据えられるのは頗る居心地が悪い。
「ねえ、河内くん、何か聴こえない?」
「は? 何が?」
只野の大きな瞳の端で、蝋燭の炎がちろちろと揺れている。
「ひとのこえがきこえるよ」
耳が破けるかと思った。ラジオの限界音量などたかが知れている筈なのに。否、これは最早ラジオ自身の音ではない。耳をつんざく甲高い音。ラジオを壊しかねない迫力。先ほどまでショボいノイズを捻り出していた筈のラジオが、身も切れんばかりに叫んでいた。鳥肌の立つ暇もなく圧倒される。
それが女の悲鳴であることに気付いた瞬間、俺は鞄を掴んで教室を飛び出していた。後から木次谷が何か叫ぶ声が聞こえるが、耳をしつこく追いかける嫌な声から逃れるために俺は見知った階段をひたすら駆け下りて、校庭に文字通り転がり出た。何かを考える暇などなかった。ゴム製の地面に肘や肩や頭を擦りつけながら俺は必死に校舎から遠ざかる。物理的な音はもう届いていなかったが、鼓膜の奥では未だに気持ち悪い悲鳴が暴れていた。ひゅうひゅうと呼吸をし、俺はそこでやっと冷や汗をかく。
「……驚いたな」
隣でいきなり声がしたものだから、俺はひっと悲鳴を上げた。首を捻じって声の主を見遣ると、俺と同じように汗を滴らせた木次谷が隣で仁王立ちしていた。
「あれは……幽霊の声なのか」
伊達眼鏡がずれているのを直そうともせず、腕組みをした木次谷は引き攣れた笑みを浮かべていた。俺は最早声など出せなかった。恐ろしさにひたすら打ち震え、根を張るように隣に立つ木次谷の男らしい足にすらあられもなく縋りつきそうである。
暫くして呼吸が落ち着いた頃、俺は大変なことに気付いた。
「木次谷! 只野、只野はどうした!?」
只野がいない。あのふわふわ頭の馬鹿女の跳ねたショートカットもやたら丸い肩もわりとある胸も、どこにも見当たらない。恐る恐る耳を澄ますが、虫の声が虚しく聴こえるだけだ。木次谷も腕組みをしたまま首を傾げる。
「只野くん? そう言えばいないな」
「いないな、じゃねーよ! アイツきっとまだ教室にいんだよ一人で! 逃げ遅れたんだよアホ! どうすんだよ!」
俺は半ばパニックに陥った。あんな得体の知れない声で充満した教室に一人取り残されたらどうなるか。只野とて少々抜けているものの一般女子の範疇に入る。甲高い叫びに追い詰められた只野の心境を思いやるや俺は卒倒しかねなかった。
俺はポケットから携帯電話を取り出して電源を入れ、恐らく只野の携帯電話には電源が入っていないことに今更のように気付いてますます焦る。もう一度あの校舎に入るなど恐ろしくてできないが、只野を置いて逃げるのはもっと恐ろしい。
一縷の望みをかけて、俺は只野の番号をコールした。木次谷がやっと伊達眼鏡をかけ直し、いつになく真剣な眼差しで俺の動作を見る。
コールが始まった。繋がったことに対する安堵と不安を味わう間もなく、電話の主がのんびりと出る。
『河内くん? どうしたの?』
普段と変わらないふわふわの声に、安心で膝が折れるかと思った。
「ど、どこいるんだ只野大丈夫か! 俺達今校庭なんだけど!」
虚勢を張って怒鳴るように言ってしまうのが情けない。
『うんとね、今はさっきの教室だよ。じゃああたしそっち行くね?』
さらりと只野は言って、電話を切ろうとする。俺は慌てて叫ぶ。
「待て切るな! 只野、ラジオは、声はどうなったんだ」
『ラジオ? 煩いから切っちゃったよ? あ、河内くんと木次谷くんが見える』
反射的に顔を上げると、一階と二階の間の踊り場の窓に携帯電話を振っている只野の姿が映った。あまりにいつもの間抜けな只野の姿なので、俺は拍子抜けすらした。先ほどの声など実は幻聴だったのではないか。俺が慌てたから木次谷が追いかけて、ドン臭い只野が遅れただけではないか。
『あ、あのね、声のことなんだけどね、』
右耳に電話越しの只野の声が吹き込まれる。窓に背を向け、只野が消える。
『どこか痛いところのある人いませんかって、ずっと叫んでたよ』
背筋がぞわりとして、俺は思わず携帯電話を耳から離した。近づけられない。只野が俺の名を呼んでいる。しかし、もう一度只野の声を聞く勇気が俺にはない。
代わって電話を受け取ったのは木次谷だった。俺の手から捥ぎ取るように携帯電話を奪い、玄関に姿が見え始めた只野に話しかける。
「どんな声だったかね? 只野くんに話しかけていた?」
『おんなのひとの声。でも叫んでいるだけで、あたしのことなんか気付いてないみたいだったの。苦しそうだった。可哀そう』
後半の言葉は、俺達のところまで歩いてきた只野自身の肉声で聴こえた。只野が通話を切って木次谷に重たげに持っていたラジオを渡すと、泣きそうな顔で呟いた。
「ずーっとずっと、苦しんでるんだ。可哀そう」
「ま、待て」
俺はやっとのことで立ち上がりながら只野を見上げた。木次谷に渡された携帯電話を無意識に受け取りつつ問う。出涸らしの声が掠れる。
「何て言ってるか分かったのか? お、俺にはぎゃーって叫び声しか……」
「俺も同様だ、河内くん。只野くん、はっきり言葉として聴こえたのかね?」
木次谷が口を出し、棒のように突っ立っている只野に向き直る。すると、只野は大袈裟なほど首をぐるりと傾げ、人差し指を唇に当てて「え?」と言った。