こえがきこえる
「理科室の前に中身の分かんない鍵がかかってる棚あるだろ」
チャンネルを合わせていないラジオのノイズが酷く煩い。蝉の声がするだけで夏場は暑く感じるものだが、意味もなさずにひたすら鳴り続けるノイズは苛立ちを募らせるらしい。俺は真正面に座る木次谷のにやけ面を一瞥し、言葉を続ける。
「あれン中には蛙とか魚とかヒヨコになる前の卵の中身とか、ホルマリン漬けが超大量に入ってて、そういうのに交じって昔ここの生徒だった人の手首のホルマリン漬けがあるんだって」
「えぇー、手首だけ? 右手? 左手? お箸持てるの?」
左側から綿毛のような声で只野が言った。本筋からズレまくりの質問が如何にも只野らしい。そしてそれが今の苛々最高潮の俺にはひたすらうざったい。
只野は、顔だけは、顔というか顔を含む見てくれだけはいいのだ。黙っていればスポーツ少女に見える健康的なボブカットに大きめの瞳、多少丸顔だがそれも愛嬌だ。暗がりに白く浮かぶキャミソールの丸い肩や胸元についつい目線がいくのは男の性か。これで中身が普通であったらこのしち面倒な状況も楽しくなるというのに。俺は只野の丸っこい顔を少し強めに睨み付けて邪険に答える。
「んなの知らねーよ。兎に角それが夜な夜な瓶から飛び出して廊下を歩き回って、理科室前の廊下にホルマリンの手形が幾つもあったっつー話。以上」
喋りながら馬鹿らしくなる。勿論俺は、小学生とてもう少しマシな作り話をできるに違いないこんな安っぽい怪談を信じちゃいない。そもそも幽霊だとか超常現象的なものは何一つ存在しないものとして生きてきた筈だ。それが何の因果か真夜中に同級生二人と学校に忍び込み教室で蝋燭とラジオを囲って百物語もどきをさせられる羽目になっている。それもこれも全て木次谷のせいである。俺はだから木次谷が大嫌いだ。
「河内くん、その手首の主が誰であるか、どうやって鍵のかかる棚を開けるか、君は聞かなかったのかい。非常に興味深いのだが」
木次谷が胡坐に頬杖をついて言う。この喋り方と姿勢に猛烈に苛々する。着る必要のない制服を着ていることにも苛々する。何故普通にできないのだろうか。いい加減喋るのも億劫なので俺が黙って首を横に振ると、木次谷は真剣な顔で顎を撫で擦りながら「そうか」と残念そうに呟いた。そうか、じゃねえよ、アホ。
「では、次は只野くんの番だ。良い怪談を期待しているよ」
「う、うん」
肩を竦めて只野が首肯した。俺は帰りたくなった。もうこんな異様な空気は沢山だ。木次谷の目が眼鏡の奥で爛々と輝いているのがどうしようもなく腹立たしい。因みに木次谷の眼鏡は伊達で、裸眼でも視力は十分いいのにわざわざかける理由は「幽霊的な何かがよく見えるかもしれない!」だ。どこかの星に飛んで行けばいいと思う。
只野は怪談の台本を用意してきたらしい。「ちょっと待ってね」と言って黄色い小さな鞄の小さな口に細い手首を突っ込んで、必死に何かを探している。只野の「ちょっと」は常人の「ちょっと」とは遠くかけ離れているので、俺は待つ間に目を閉じてしみじみと思い返した。ことの発端は何だったのかを。
ラジオの電波が幽霊の声を拾う。
校則違反も甚だしく肩ほどまで伸びる髪を乱暴に払い除け、木次谷は意気揚々と言った。わりに女顔のせいか微妙な長髪もあまり鬱陶しく感じられないことが妙に癪だ。適当に聞き流した話によれば、ラジオをどこの局にも合わせずにノイズを垂れ流しにさせた上で真夜中の学校で怪談をして幽霊を引き寄せると、その幽霊の声をラジオの電波が拾うらしい。いつものトンデモ話である。オカルトマニアの電波人間木次谷がいかにも舌なめずりをして喜びそうなネタだ。
木次谷は時折この手のネタを持ってきては、俺や俺を含む他のクラスメイトを巻き込んでオカルト探索に勤しむ。芳しい結果が出た例は一度も聞いていないが、木次谷は木次谷になりに楽しんでいるらしい。つまり、とんでもなく迷惑な人間である。
細面の顔とは対照的なガタイのいい肩から全体重をかけ、夏の晴れやかな青空を背後に回した木次谷は、ばんと机を大仰に叩いて言い放った。
試したいから夜中に一緒に学校に忍び込め。
勿論二つ返事で断った。しかしそれで諦める木次谷ではない。面倒なので省略するが、木次谷に借りが三つくらいある俺はあの手この手で買収され脅迫され、結局同行する羽目になったのである。男二人で真夜中にじっとり怪談など気色悪い光景以外の何ものでもないが、何故か木次谷が只野も誘ったために女子が交じることとなった。だからと言って状況が変わるわけでも何でもないが。
只野も只野である。木次谷に借りなど一つもないだろうに、誘われたからというだけでついていくのだ。事実只野は馬鹿である。日本語は通じるが意味は通じない。作り天然を疑ったこともあるが、運悪く二年続けて同じクラスという付き合いは只野が本物の馬鹿であると結論づけている。抜けているし動作もトロいし、そこが可愛いと言う奴も中にはいるが、少なくとも俺は受け付けないタイプである。
まあ一晩我慢すれば良いのだろうと潔く諦め、俺は待ち合わせ場所に向かった。木次谷は一時間前からいて、只野は十五分遅れてきた。首尾よく学校に侵入して――詳しくは省略するが、木次谷の組み立てた侵入経路は舌を巻く程完璧であった。この才能を他に活かせば良いのに――空き教室を陣取った俺達に、木次谷は懐中電灯で顔を下から照らして物々しく言ったのである。
「携帯電話の電源を、お切り下さい」
「むかしむかし、戦時中の話です」
作文を読み上げる小学生さながらに、只野はやっと取り出した紙をがさがさと広げて拙く怪談を披露し始めた。ノイズが砂を崩すようにざわざわと騒ぐ。時折ぶつぶつと何かが途切れるような音がする。煩わしい。
「この学校は避難所でした。空襲があるたびに人が逃げ込んで来ました。怪我した人は空いている場所に手当たり次第に寝かされて、数少ないお医者さんや看護婦さんが手当てをしていました」
「ここが避難所だった話は有名だな」
木次谷が眼鏡を押し上げて言う。俺も只野の言い出しで内容の半分くらいは察せられた。この手の怪談がこの学校には幾つもあるし、道徳の授業などで時折呼ばれる近隣の老人の戦争話の中にも必ずと言って良いほど出てくるのだ。
「うん。それでね、ある一人の真面目な看護婦さんがいました」
只野の浮ついた高い声は蝋燭の火のみに照らされる暗い教室には酷く場違いで、ミスマッチさが不気味さを誘う。俺は今何時なのかを確認するために携帯電話を取り出し、電源を切っていることを思い出して軽く舌打ちをした。
木次谷が言うには、電波を受信するものは全て切れとのことだった。ラジオの電波に影響が出てしまい、聴こえるものも聴こえなくなるだろうと。本気で馬鹿だと思う。聴こえるものなどないのに。
木次谷持参の馬鹿でかいラジオのノイズの上に、只野の舌足らずの声が重なる。
「看護婦さんは凄く凄く凄く凄く一生懸命働いて、でもあまりにも怪我人が多くて看護婦さんもお医者さんも全然数が足りなくて、とてもじゃないけど全部回り切れなくて、それでね、それで、」
チャンネルを合わせていないラジオのノイズが酷く煩い。蝉の声がするだけで夏場は暑く感じるものだが、意味もなさずにひたすら鳴り続けるノイズは苛立ちを募らせるらしい。俺は真正面に座る木次谷のにやけ面を一瞥し、言葉を続ける。
「あれン中には蛙とか魚とかヒヨコになる前の卵の中身とか、ホルマリン漬けが超大量に入ってて、そういうのに交じって昔ここの生徒だった人の手首のホルマリン漬けがあるんだって」
「えぇー、手首だけ? 右手? 左手? お箸持てるの?」
左側から綿毛のような声で只野が言った。本筋からズレまくりの質問が如何にも只野らしい。そしてそれが今の苛々最高潮の俺にはひたすらうざったい。
只野は、顔だけは、顔というか顔を含む見てくれだけはいいのだ。黙っていればスポーツ少女に見える健康的なボブカットに大きめの瞳、多少丸顔だがそれも愛嬌だ。暗がりに白く浮かぶキャミソールの丸い肩や胸元についつい目線がいくのは男の性か。これで中身が普通であったらこのしち面倒な状況も楽しくなるというのに。俺は只野の丸っこい顔を少し強めに睨み付けて邪険に答える。
「んなの知らねーよ。兎に角それが夜な夜な瓶から飛び出して廊下を歩き回って、理科室前の廊下にホルマリンの手形が幾つもあったっつー話。以上」
喋りながら馬鹿らしくなる。勿論俺は、小学生とてもう少しマシな作り話をできるに違いないこんな安っぽい怪談を信じちゃいない。そもそも幽霊だとか超常現象的なものは何一つ存在しないものとして生きてきた筈だ。それが何の因果か真夜中に同級生二人と学校に忍び込み教室で蝋燭とラジオを囲って百物語もどきをさせられる羽目になっている。それもこれも全て木次谷のせいである。俺はだから木次谷が大嫌いだ。
「河内くん、その手首の主が誰であるか、どうやって鍵のかかる棚を開けるか、君は聞かなかったのかい。非常に興味深いのだが」
木次谷が胡坐に頬杖をついて言う。この喋り方と姿勢に猛烈に苛々する。着る必要のない制服を着ていることにも苛々する。何故普通にできないのだろうか。いい加減喋るのも億劫なので俺が黙って首を横に振ると、木次谷は真剣な顔で顎を撫で擦りながら「そうか」と残念そうに呟いた。そうか、じゃねえよ、アホ。
「では、次は只野くんの番だ。良い怪談を期待しているよ」
「う、うん」
肩を竦めて只野が首肯した。俺は帰りたくなった。もうこんな異様な空気は沢山だ。木次谷の目が眼鏡の奥で爛々と輝いているのがどうしようもなく腹立たしい。因みに木次谷の眼鏡は伊達で、裸眼でも視力は十分いいのにわざわざかける理由は「幽霊的な何かがよく見えるかもしれない!」だ。どこかの星に飛んで行けばいいと思う。
只野は怪談の台本を用意してきたらしい。「ちょっと待ってね」と言って黄色い小さな鞄の小さな口に細い手首を突っ込んで、必死に何かを探している。只野の「ちょっと」は常人の「ちょっと」とは遠くかけ離れているので、俺は待つ間に目を閉じてしみじみと思い返した。ことの発端は何だったのかを。
ラジオの電波が幽霊の声を拾う。
校則違反も甚だしく肩ほどまで伸びる髪を乱暴に払い除け、木次谷は意気揚々と言った。わりに女顔のせいか微妙な長髪もあまり鬱陶しく感じられないことが妙に癪だ。適当に聞き流した話によれば、ラジオをどこの局にも合わせずにノイズを垂れ流しにさせた上で真夜中の学校で怪談をして幽霊を引き寄せると、その幽霊の声をラジオの電波が拾うらしい。いつものトンデモ話である。オカルトマニアの電波人間木次谷がいかにも舌なめずりをして喜びそうなネタだ。
木次谷は時折この手のネタを持ってきては、俺や俺を含む他のクラスメイトを巻き込んでオカルト探索に勤しむ。芳しい結果が出た例は一度も聞いていないが、木次谷は木次谷になりに楽しんでいるらしい。つまり、とんでもなく迷惑な人間である。
細面の顔とは対照的なガタイのいい肩から全体重をかけ、夏の晴れやかな青空を背後に回した木次谷は、ばんと机を大仰に叩いて言い放った。
試したいから夜中に一緒に学校に忍び込め。
勿論二つ返事で断った。しかしそれで諦める木次谷ではない。面倒なので省略するが、木次谷に借りが三つくらいある俺はあの手この手で買収され脅迫され、結局同行する羽目になったのである。男二人で真夜中にじっとり怪談など気色悪い光景以外の何ものでもないが、何故か木次谷が只野も誘ったために女子が交じることとなった。だからと言って状況が変わるわけでも何でもないが。
只野も只野である。木次谷に借りなど一つもないだろうに、誘われたからというだけでついていくのだ。事実只野は馬鹿である。日本語は通じるが意味は通じない。作り天然を疑ったこともあるが、運悪く二年続けて同じクラスという付き合いは只野が本物の馬鹿であると結論づけている。抜けているし動作もトロいし、そこが可愛いと言う奴も中にはいるが、少なくとも俺は受け付けないタイプである。
まあ一晩我慢すれば良いのだろうと潔く諦め、俺は待ち合わせ場所に向かった。木次谷は一時間前からいて、只野は十五分遅れてきた。首尾よく学校に侵入して――詳しくは省略するが、木次谷の組み立てた侵入経路は舌を巻く程完璧であった。この才能を他に活かせば良いのに――空き教室を陣取った俺達に、木次谷は懐中電灯で顔を下から照らして物々しく言ったのである。
「携帯電話の電源を、お切り下さい」
「むかしむかし、戦時中の話です」
作文を読み上げる小学生さながらに、只野はやっと取り出した紙をがさがさと広げて拙く怪談を披露し始めた。ノイズが砂を崩すようにざわざわと騒ぐ。時折ぶつぶつと何かが途切れるような音がする。煩わしい。
「この学校は避難所でした。空襲があるたびに人が逃げ込んで来ました。怪我した人は空いている場所に手当たり次第に寝かされて、数少ないお医者さんや看護婦さんが手当てをしていました」
「ここが避難所だった話は有名だな」
木次谷が眼鏡を押し上げて言う。俺も只野の言い出しで内容の半分くらいは察せられた。この手の怪談がこの学校には幾つもあるし、道徳の授業などで時折呼ばれる近隣の老人の戦争話の中にも必ずと言って良いほど出てくるのだ。
「うん。それでね、ある一人の真面目な看護婦さんがいました」
只野の浮ついた高い声は蝋燭の火のみに照らされる暗い教室には酷く場違いで、ミスマッチさが不気味さを誘う。俺は今何時なのかを確認するために携帯電話を取り出し、電源を切っていることを思い出して軽く舌打ちをした。
木次谷が言うには、電波を受信するものは全て切れとのことだった。ラジオの電波に影響が出てしまい、聴こえるものも聴こえなくなるだろうと。本気で馬鹿だと思う。聴こえるものなどないのに。
木次谷持参の馬鹿でかいラジオのノイズの上に、只野の舌足らずの声が重なる。
「看護婦さんは凄く凄く凄く凄く一生懸命働いて、でもあまりにも怪我人が多くて看護婦さんもお医者さんも全然数が足りなくて、とてもじゃないけど全部回り切れなくて、それでね、それで、」