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蓮の夭折

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あちらこちらで蓮の花がぬっと延びて咲き乱れ、花弁の紅色を朝靄に滲ませている。花の中には小さな蜂の巣のようなものがあって、黒い点のような虫がまとわりついている。それでも嫌な感じがしないのは、紅色が強いからだろうか。
私はさらに身を乗り出して、そっと鼻を差し出した。お香ばかり嗅いでいた鼻はすぐにきかなかったが、やがて感じたい匂いを探し出す。
花弁の内側から控えめに漂ってきたのは、透き通る上品さを持った匂いであった。花によくあるような甘さはなく、透明で薄い匂いだ。
(蓮姫に相応しい、)
胸中で呟く。目を閉じると、より強く感じられる。唇も開けて匂いの混じった空気を身体に大きく取り入れた。晴れやかな気分である。むせ返るほどに焚かれたお香より、こちらの匂いの方が蓮姫には相応しい。
不意に、幽かにぽんという音がして、私は驚いて眼を開けた。
目の前には相変わらず蓮が広がっている。咲きかけも散りかけも互いが互いの間を縫うようにして、首を伸ばしている。
もう一度、今の音を聴かねばならない。私は髪を手繰って耳を開け、目をしっかりと開いて蓮の群れを睨む。先ほどよりも朝靄が薄れてきた。そろそろ、本当に日が昇ってきたのだろう。もう猶予はない。
牛の唸りに似た低い鳴き声が上がり、私は驚いて息を呑む。水面で何かが重く跳ねる。応えるようにまた同じ声が上がる。低く水面を揺らす声は野太く、池の底に住んでいる魔物の声だと言われても信じてしまいそうである。
それが蛙の鳴き声らしいということに気付いたのは、そうした鳴き声が重なるように幾つも上がってからであった。
人の足音が聴こえるようになった。潮時である。私は踵を返して、元来た道を引き返す。背後では、蛙の唸り声が飽くことなくあちこちに飛び交っていた。

***

「藤姫はご存知かしら、蓮の花は咲くときに、ぽんという音がするの」
突然ころりと蓮姫の表情が変わり、頬に柔らかな笑窪が浮かんだ。
「ぽん?」
「そうです。お天道様が落ちるときに、海に落ちる音が聴こえるように、そんな音がするという話です」
私は首を捻る。日が落ちるときに音がするという話は時折耳にするが、夕暮れ時に耳を澄ましても一度もそのような音が聴こえたことがない。婆やに真偽を問うた記憶もあるが、誤魔化されたように思う。果たして花が咲くときに音などするだろうか。いやしかし、この葉に巻けず劣らず大きい花となれば、開花と同時に音がすることもあるのだろうか。
もう一度見上げると蓮姫はどこか茶目っ気の感じられる顔で欄干に凭れていた。下がり気味の目尻が心なしか上がり、何かを期待する子供のような瞳が日を受けて光る。
「……失礼ですが、それはまことですか」
思わず寄る眉を懸命に抑えながら問うと、
「さあ、私は耳にしたことはないので」
蓮姫の薄い口唇が嬉しそうに開く。
「早朝、まだ暗い時分に確かめられてはいかが?」
そこでようやく私はどうやらからかわれているらしいことに気付き、思わず唇を尖らせてしまった。今度は婆やのことなど気にしない。蓮姫がこちらを見て相変わらず笑まれている。すんと鼻を啜ると、川から立ち昇る水臭さが鼻の奥にへばりつく。
「今年の蓮も、見られるかしら」
蓮姫の遠い声が宙を彷徨う。近く姿が見えるのに、声ばかりが遠かった。姿は見えないのに声ばかりが聴こえる蛙と逆だ、と思いつく。蛙の声が心持ち騒がしくなった。
「いつ頃、咲きますか」
堪らず、問う。蓮姫は先ほどと打って変わって落ち着いた声音で返す。
「夏の深まる初めの頃です」
ざあと緑風が散り散りに吹き、私と蓮姫の髪を軽く巻き上げる。蓮姫の指に挟まっていた淡紫色の花弁も巻き込まれて瞬く間に空に吸い込まれる。
初夏にも入らぬ、あくる日の出来事であった。

***

鈍色であるというだけで、布の重さが増した気がする。婆やは手際良く私を着付けていく。しわだらけの固い手は、いつもより少し強めに帯を巻く。
今日も屋敷中がお香の匂いで満ちていた。始めのうちは匂いが強すぎて頭がくらくらしたが、半日もすればそれが当然のように思われてきて、しかしそれでも私はどこかこの匂いに慣れることができない。
婆やの固い手の平が、ぽんと私の背を軽く押す。着付けの終わった合図である。微塵も動かずに突っ立っていた私は、そこでやっと身じろぎをした。着慣れない衵はごそごそと乾いた衣擦れの音を立て、私は眉を顰めた。
「無理に笑えとは申しませんが、」
すかさず、婆やが言う。
「表情を表に出さないよう、くれぐれもお願いいたしします」
今まで何度も繰り返された言葉に私は黙って頷き、部屋を出る婆やの足跡を追う。少し歩くだけで汗が流れ、着慣れない服はますます重くなる。
婆やについてお屋敷を出た。暑さに頬が火照る。名も分からぬ虫が鳴き騒ぎ、鴉の声が細々と届く。私は俯いてひたすら歩いた。裾を踏むことはなかった。幾ら歩いても、お香の匂いだけはしつこく追いかけてきて、私はそれらを吸わないように息を詰めていた。
着いたお寺には兄弟姉妹が沢山いた。腹違いの者も、そうでない者も。皆が私の父たる人物と血が繋がっている。兄弟姉妹だけでなく、親戚という親戚が集まり、人の熱気が立ち昇って陽炎を作っていた。
日はまさに暮れようとしていた。ようやく顔を上げた先では、山の輪郭と日が溶け合い、周辺の空を禍々しく染めている。私の名が示す藤の色よりも大分濃い紫がその上を覆い、さらに闇が迫っている。夕闇と呼ぶに相応しいものが着々と近付いてきている中で、牛車に乗せられた棺が静かに運ばれてきた。
虫の声はいよいよ騒がしく、鴉の声も近い。寺の方が山に近いせいか、人以外の生き物がそこかしこに散っている。うろうろとその辺りを見てみたい衝動にかられたが、私をじっと監視している婆やの存在を思い出して踏み止まる。ここは大人しくしていなければならないところだ。
私と何かしらの縁がある人々が一様にざわめく中、儀式が始まる。日は山の輪郭に一筋の光を残して消えようとしており、焚かれた松明の火が俄かに強く感じられた。
僧がぶつぶつと念仏を唱え始め、人々のざわめきは静まる。それでも静かになった気がしないのは、生き物の音が多いせいだろうか。日が完全に山の向こう側に消えた途端、気配がどっと増した気がする。私は肌を伝う汗の感触に耐え、ことが過ぎるのを黙々と待った。
やがて、棺が荼毘に付された。
炎の上がるそこだけが眩しく、燃え上がる様を徐々に見上げていくと、炎の端からは無数の火の粉が散っていた。既に空には星が浮かび上がり、山を含む全ての風景が暗く没している。焦げ臭さと共に熱風が絶え間なく吹いてくるので、私は婆やと共に随分と後ろまで下がった。
人々の頭は一貫して黒々とし、やはり背景のように沈んでいた。私より後ろの人が私を見ても、同じように思うだろう。木々や松明が燃えるのとはまた別の、不思議な臭気が立ち込め、私は息を止めた。吸ってはならないと感じたのだ。
あの炎の中に、かつて私に向かって優しく笑んだそのひとがいるのかと思うと、とても不思議だった。死の示す意味が全く分からないわけではないけれど、それでも私はどこかで蓮姫の死を納得していなかった。
あのように炎に包まれて、熱くはないだろうか。
作品名:蓮の夭折 作家名:桜山葵