蓮の夭折
身を焼かれながら、あのひとは今何を思っているのだろう。
見上げることに飽いてきた大人達が、ぼそぼそと喋り出した。建物の中に引き上げる者もいる。婆やは相変わらず私を見張るように立っていたが、私が眠そうに首をもたげると、黙って私の背を押して堂の中へ連れて行った。
そこからは、もう、よく覚えていない。
私は疲れて眠ってしまったらしく、気が付けば婆やにおぶわれていた。視界はひたすら暗く、婆やの背中が心地良かったので、私はそのまままた眠りに入ってしまった。
夢を見た気がするが、覚えていない。
***
あくる朝、私はまた布団を抜け出した。朝とも呼べない、まだ暗い最中である。時間がある分、慎重に足を運ぶ。道はもう覚えている。屋敷のお香の匂いは大分薄れており、蓮姫の気配は着実に薄れようとしていた。
欄干から覗き込む先の水面は相変わらずお椀のような葉が埋め尽くしていたが、蕾は以前より減っていた。重い瞼を瞬かせ、私は一心にそれらを見つめる。暗くてよく見えず、靄が頬を掠めてますます視界を狭める。
毒を含むような靄に巻かれ、私は気を失いかける。それでも気丈に足を張って立ち、欄干から覗き込み続けた。ここは譲れなかった。
不思議なほど虫の声が聴こえなかった。或いは、夢の中なのか。どこに立っているのかさえ覚束なくなり、私は必死に欄干にしがみ付く。明け方は薄い寝巻き一枚では少し肌寒く、私は袖をそっと寄せる。
ぽん、という音がした。
慌てて目を彷徨わせると、案の定一輪だけ開花していた。暗く霞む中で、紅色がくっきりと浮かび上がる。美しく、孤独な一輪である。朝露を滴らせ、首を優美にもたげて上向いている。
これはもしかすると蓮姫なのかもしれない、と思った。
蓮姫は、若死にしたのだ。蓮のように。美しく穏やかにありながら、短く咲いてどこかに消えてしまったのだ。
私が蓮姫と言葉を交わしたのは、ほんの少しであった。初夏に満たないあの日が一番長く話したかもしれない。私と蓮姫は一人の人間を通じて血が繋がっている筈なのに、酷く希薄な関係であった。それは何も私と蓮姫だけに言えた話ではないけれど、蓮姫は特別そのように感じられる。
喉の奥で何かが降りて、重い瞼から涙が滲んだ。
もう、私はあの穏やかな姉上と話をすることはできないのだ。蓮の開花の音を聴いたことも、何もかもを話せないのだ。病弱で立場の弱いあの姉に渡しそびれた言葉やものが、私にはまだ沢山残っているような気がしてならない。
私はやがて、蓮姫と同じ齢に届くだろう。背も伸びるかもしれない。裳着もそのうち行う。物腰も多少良くなるだろう。そして、ゆっくりと、蓮姫を越えていく。この屋敷の人は、かつて蓮の名を賜ったそのひとのことを思い出話にも出さなくなるだろう。蓮姫という存在は、消えていく。
けれど、私はどうしても忘れることはできない。蓮の花が音を立てて開花するたびに、細い姿を思い起こす。予感がする。
空が明るんでくる。靄が晴れ、徐々に虫の声が耳に届いてくる。夢から醒めたのか。私は瞼を精一杯擦り、欄干から顔を上げた。川から立ち昇る青臭さと晴れやかな空気が綯い交ぜになって、私の喉を通り抜ける。よく沁みる味がする。
姉を亡くしてから、初めて涙を流した朝だった。
【了】