蓮の夭折
蓮姫の死は納得できるのに、これが蓮姫であることは納得できなかった。
白い布団は呆気ないほどに薄く儚く、布団と白い布との隙間から幽かに覗く首筋にはか細い骨が浮き上がっている。汗をかかない、死人の首だ。
人の死んだ顔というものを見てみたくて、私はうずうずと婆やが顔を上げるのを待ったが、顔を上げた婆やは布を取ることはなく、静かにその場の人々に一礼をしてさっさと立ってしまった。そうなれば私もそれに従う他はなく、未練がましく振り返りつつも、婆やの後について几帳を潜る。
香の匂いが心持ち薄らいだ。
「ねえ、婆や」
廊下を速い歩調で進む婆やの背を追いかけ、私は問う。
「どうして、こんなに強くお香を焚くの」
婆やは足を緩めることなく答えた。
「夏だからですよ」
***
「まだ、端午の節会を終えたばかりです。夏本番は、まだです」
私は何か会話を繋がなくてはと一生懸命に言葉を捜した。夏の節目ではあるが、本番はこれからである。寝苦しい夜は続くが、夏は生き物の息吹が殊更に騒がしくて、私は胸が躍る。
蓮姫は欄干に寄りかかるようにして私の方へ向き直り、痩せた頬を綻ばせて頷いた。笑ってくれたことに私は安堵し、返して笑む。
「藤姫がここにいらっしゃるなんて、珍しいこと」
その優しい顔のまま言われて、私はばつが悪く黙り込む。こっそりと婆やの目を掻い潜って小さな探検をしていたと知ったら、呆れられるだろうか。上手い弁明はないかと考えている私をよそに、蓮姫が唐突に手を伸ばした。
「え、」
思わず声が漏れたのは、蓮姫の伸ばした手の先が私の頭上であったからだ。落ち着いた色が重なった袖から伸びた手は青白く、暗い血管の色がはっきりと見えることにも驚いた。
「これは、藤かしら」
蓮姫の骨の浮く指が私の髪から掠め取ったのは、目を凝らさないと見えないような、小さな淡紫色の何かであった。花弁の切れ端だろうか。蓮姫は目の高さに摘み上げて目を細め、じっくりとそれをご覧になる。
「藤……私の、」
「そうです。藤姫のお名前の。ほら、あそこの」
花弁を摘む指が、今度は私の後方をゆるりと指差した。促されるままに振り返ると、丁度私が通ってきた木々の隙間にその花弁と同じ色をした束がしな垂れているのがちらりと見えた。淡い色合いはいかにも周りの風景に溶け込んでいたが、自然と目が吸い寄せられるのは何故だろう。
藤の花を知らないわけではなかった。目にしたことのある花である。自分の名が花の名から取られたことも勿論教えられたから知っている。しかし、こうしてまじまじと意識をして見つめるのは初めてであった。緑風が円を描いて通り過ぎ、花の束が緩やかに揺らめく。緑に埋もれたその光景は、私の心を一瞬で奪った。
「きれいな花でしょう。藤姫のお名前は、あのきれいな花が由来なのですよ」
見惚れる私の耳朶に蓮姫の低い声が囁き、不意に我に返る。私は応えるように軽く頷いて、藤の花から慌てて目を離した。今更ながら、蓮姫に背を向けていることに気付いたのだ。
「姉上は、」
私は言葉を捜しながら問う。
「姉上のお名前の花は、どれですか」
私の問いに、蓮姫は驚かれたようであった。薄い瞼を開き、頭一つ分低い私の頭を暫し見下ろした。何かいけない質問をしてしまったのかと私が逡巡すると、それを感じ取ったかのように蓮姫の口角が上がった。蓮姫の笑みは、どこか私を安心させる。
「蓮の花はまだ咲きません。でも、」
蓮姫が凭れていた欄干から緩慢に身を起こし、橋の下を覗き込む。手招きをされたのでそわそわと蓮姫の隣に落ち着くと、蓮姫は未だに花弁を摘んだままの指で小川の水面を示した。
「この葉が、蓮の葉です」
欄干に手をかけ、私は恐る恐る覗きこんだ。あまり高さはないが、水が苦手である私にとって、実を言うと橋の上にいるというのもあまり心地が良くない。
だが、私はたちどころにそのようなことは忘れてしまった。
単純に、驚いたのだ。
ぬっと立った長い茎の先にはお椀のように広がる葉がこちらに向かって広がり、その中心には水の玉を幾つも載せている。葉と言っても、手の平に乗るようなものではなくて、それこそ見たこともないような、それは大きな葉である。大人の男の飯を何杯分よそうことができるだろうか。お椀の底が、一様に私を見つめ返していた。
葉だけではない。恐らく花の蕾だろうと思われるものもそれらの葉を縫うようにぬっと伸びて、頭を垂れている。固く閉じた蕾の先は鋭く、そこを撫でるように一匹の蜂が止まっている。
驚きが落ち着いてからようやく水面に目を移し、私はまた驚く。水底が覗けるかと思っていたそこは蓮の葉や黄緑色の何かがびっしりと埋め尽くし、しっかりとした床ができていたのだ。岸に寄った一部のみではあるのだが、そこだけ陸ができていて、そのまま歩けそうである。その床の上には別の植物の小さな葉が幾つか転がっていた。
「……大きい」
感慨の溜息を漏らすと、隣の蓮姫がふふと上品に笑った。
「大きいでしょう。蓮の花も、葉に負けず大きいのですよ」
「えぇっ」
驚愕のあまり情けない声を出して、咄嗟に両手で口を塞ぐ。今の様子を婆やに見られてしまったら、或いは、見られはしなくても人づてに耳に入ってしまったら、小言の嵐である。
そんな私を見下ろして、蓮姫は手の甲を口元に当てて控えめに笑われる。大人らしい大人の仕草に、私は恥ずかしくなる。裳着をするのとしないのとでは、ここまで違いが出てくるものなのだろうか。
「蓮の花は、四日間の命なのです」
笑いを穏やかに収めた蓮姫が言う。
「四日間、朝早く咲いて夕方の前に閉じて、それを繰り返し、五日目にはもう咲かない、そんな、わかじにの花です」
わかじに、という言葉が、私の胸に突き刺さる。
私の母上は健康で、勿論存命である。同じ母から生まれた私の兄上も弟も同様だ。蓮姫以外の腹違いの兄弟達にしても、同じことが言える。だが、蓮姫の母上は若くして亡くなった。私の生まれる前の話だが、決して遠い話ではない。
そして、また、恐らく目の前のこの方は、蓮という名を持つことに対して、己の先を重ね合わせているに違いなかった。
***
早朝にこっそり起きるのは難しいので、一晩中起きていることにした。
闇に沈んだ天井も暗さに慣れた目で見上げれば細かく見えるもので、時折通り過ぎる蜘蛛の数を数えながらひたすら日の出を待った。それでも眠さに勝てずうとうととした頃、外が明るいことに私は気付く。
空が明け始めたと分かった途端に眠気は吹き飛び、私は寝巻きのままでそっと布団を抜け出て廊下に出た。隣の間では婆やがいびきをかいている。紛れもなく寝ている。私は庭に飛び出し、いつか通った筈の道の記憶を辿る。裸足に突き刺さる地面は痛かったが、婆やが起き出す前に戻らねばならない。屋敷中お香の匂いが充満しているせいか、靄に包まれてはいても、外の空気は晴れやかに思えた。
川を頼りにすると、二ヶ月前の蓮姫の姿が重なる橋が見えた。駆け寄って欄干に手をつき、ぐっと身を乗り出して覗き込む。水が怖いなどと言っていられない。
大きく広がった花弁に迎えられた。