蓮の夭折
紅色の花弁が、一枚、ゆるりと反った。
糸で連なっているようにもう一枚、もう一枚と花弁は開いていく。幾重にも重なって数え切れない。焦れることもなく、一枚一枚、慎重に開いていく。そのたび、鼻を透き通らせる匂いが解き放たれ、紅が薄っすらと広がっていく。
仄暗い中で紅色はよく映え、青々とした茎は水辺で凛と背筋を伸ばしていた。その隣で、新たに別の紅色が広がる。薄闇に次々と開花していく蓮の花はただきれいで、群れている癖に孤独である。風は吹かない。音もしない。目と耳はしっかりと開いているのに、どこに立っているのかさえ分からない。ああ、これは、もしかすると夢なのだ、と今更のように気付いた。
蓮の花が一斉に咲き乱れる頃、薄闇と紅色が霞む白にゆっくりと淀んだ。
日が昇った。
頭の向こう側を慌しく行き交う人の足音が夢見心地に踏み込んできて、いつもより色濃く焚かれたお香の匂いにまかれた私は、唐突に姉の死を、悟った。
***
鶯の囀りに追い立てられるように歩を結び、置石の上を覚束ないままに渡る。私は美しい所作とあまり縁がないようで、日頃から婆やにお叱りを受けてばかりである。けれど、幾ら言われても、上手くできないものはできないのだ。
引きずる袴を踏みそうになって、すんでのところで堪えた。泥をつけてしまったら、今度はどのようなお叱りを受けるだろうか。想像するだに恐ろしく、私は軽く身震いをした。こめかみをつうと一筋、汗が伝った。もうじき、夏になる。
半ば逃げ込むように、私は青臭い庭の木々の間を潜り抜けた。無遠慮に突き出た枝に髪を引っ掛ける。構わずに進むと頭皮がひりっと痛んだ。背が小さいものだから袴の裾が余分に長い分、足の裏に絡まった。婆やは背などすぐ伸びると繰り返すが、兆しは一向に見えない。
淡紫色が束になって垂れている花を少し乱暴に払いのけると、甘苦い香りと共に視界が広がった。それまであまり前を見ずに走っていた私は、ここでようやく落ち着いて、知らない場所まで来たことを知る。蛙が住み込む小さな池に繋がった頼りない川がつるつると流れ、その上にはこぢんまりとした橋が渡してある。私の自室から覗ける風景にはないものである。
お屋敷には通っても良いところと近付いてはいけないところとがあって、後者に足を踏み入れようものならば、婆やのお説教は日がな一日続くに違いない。幾つもの壁や屏風に遮られて、それらの場所に近付くことは叶わないけれど、庭は全て繋がっている。いけない場所に辿り着いても致し方ない。それに、屋内でなく外ならば構わないだろう。そう自分に言い聞かせ、私は一歩踏み出す。
全体的に丸みを帯びた小さな橋には、人がいた。お付の女官一人と、女の人一人。身なりからしてこの屋敷の一族の誰かだろう。ここには血の繋がる人とそうでない人が普通よりも多く入り交じっているから、あまり見かけない人がいても不思議ではない。背中に広がる長い黒髪が重そうに垂れていた。
ふと、空気を動かさずにその女の人が振り返る。すると、身を隠すこともなく呆然と立っていた私としっかり目が合った。細くまなじりの下がった瞳を覗いて、私は思い出した。そうだ、この人は私の腹違いの姉にあたる人だ。一族の会合をお休みすることの多い方だから、こうして顔と顔を確かめ合うのは久方ぶりである。すぐに思い出せない筈であった。
名を、蓮、と言う。
「こんにちは、藤姫」
私が挨拶をする前に、蓮姫が口を開いた。見るからに細く折れそうな外見とは裏腹に、紡がれた声は低めである。何でも幼い頃から何度もお風邪を召されたために、喉を悪くされているそうだ。嗄れているなりに聴き取りやすい発音であると思うのだが、大人達はあまり良い顔をしない。
お声に表れている通りに、蓮姫は大変病弱な方である。生まれてこのかた臥せっている日の方が長く、寄合もご欠席すること度々、稀に出席されても気分を悪くされて中座することしばしば、という具合に筋金入りである。私の足りていない背の上で交わされる大人達の噂話によれば、蓮姫の母親も病弱な方で、出産が原因で亡くなったのだという。
「こんにちは、姉上。あの、」
だから、このように外でお見かけすことなどまずないのだが、現に出ている。これはどうしたのかと好奇心が疼き、同時に思っていることを表に出すなという婆やの教えを思い出して、私は何とか無難な言葉はないかとうろたえる。
「お加減はもう、よろしいのですか。春先に体調を崩されたと聞きました」
うろうろとした迷いの見える私の言葉を、蓮姫は黙って微笑みながらお聞きになっていた。どこもかしこも痩せていて美しいとは言えない風貌である蓮姫だが、表情や振る舞いはまるで大人のように優雅だ。いや、三つか四つしか渡しと違わないが、私とは違う、裳着を済ませた大人である。
「今日は殊の外気分が良くて、外の空気を楽しんでいたのですよ。お心遣い、ありがとう」
淑やかに笑うと、蓮姫の目尻に笑いじわが浮かんだ。私はそれを見上げてそっと溜息をつく。私はこのような佇まいができない。蓮姫は、どうしようもなく大人なのである。幾ら気張っても仕方ないのだ。
それでも、粗忽者と思われるのは恥ずかしいので、私は精一杯気取ってしずしずと足を進め、蓮姫の側まで寄った。途中、裾を三度踏みつけたが、すんでのところで表に出さなかった。川から上がる蛙のくぐもった声が近くなる。
「もう、夏になってしまうのね」
どうと風が吹いて、袖を揺らす。蓮姫の重そうな髪が幾筋か舞い上がって、風の合間を泳いだ。私は唐突に堪らなく寂しい気分に襲われる。蓮姫の低い声音は深みを帯びて私の心を覆い、詠嘆の呟きに内包された儚さが滲み出る。
***
一際強くお香の香るその部屋に通されたのは、日が傾き始めてからであった。
婆やに続いて几帳を潜ると、鼻を伝って喉に届くような匂いが広がる中で、白い布団を中心に人々が集っていた。この家の者も、そうでない者も、一様に押し黙って布団を取り囲んでいる。布団は北枕にされ、枕辺には火が灯されていた。
何をすれば良いのか見当もつかなくて婆やをそっと見上げると、顔に多く刻まれたしわをほんの少しだけ歪ませた婆やは、音も立てずに枕元に正座し、黙って手を合わせた。私もそれに倣い、単の裾が上手く広がるようにゆっくりと腰を下ろして手を合わせる。目を閉じてみたものの、やはり何を念じれば良いのかも分からず、私はただ息を殺した。
近くで火を灯されているものだから、汗が次々に額を伝う。こんなに暑い日にむせ返るような匂いの中でじっと押し黙っていられるなんて信じられないが、それが大人というものなのかもしれない。一番押し黙ってものを言うことがない人は、白い布団に包まれて尚、僅かでも動くことさえしない。
首筋の裏が気持ち悪く湿ってきた。もう良い頃合かと顔を上げると、婆やはまだ頭を垂れて一心に祈っていた。一旦降ろした手をまた戻すわけにもいかず、私は迷いに迷って人と目線が合わないように注意して視線を彷徨わせる。
白い布で覆われている目の前のものは、本当に人かどうかすら疑わしい。手を伸ばして顔にかけられた白い布を取り払うことは容易であるけれども、そんなことを勝手にしようものなら婆やの眉間のしわをいたずらに増やすだけである。
糸で連なっているようにもう一枚、もう一枚と花弁は開いていく。幾重にも重なって数え切れない。焦れることもなく、一枚一枚、慎重に開いていく。そのたび、鼻を透き通らせる匂いが解き放たれ、紅が薄っすらと広がっていく。
仄暗い中で紅色はよく映え、青々とした茎は水辺で凛と背筋を伸ばしていた。その隣で、新たに別の紅色が広がる。薄闇に次々と開花していく蓮の花はただきれいで、群れている癖に孤独である。風は吹かない。音もしない。目と耳はしっかりと開いているのに、どこに立っているのかさえ分からない。ああ、これは、もしかすると夢なのだ、と今更のように気付いた。
蓮の花が一斉に咲き乱れる頃、薄闇と紅色が霞む白にゆっくりと淀んだ。
日が昇った。
頭の向こう側を慌しく行き交う人の足音が夢見心地に踏み込んできて、いつもより色濃く焚かれたお香の匂いにまかれた私は、唐突に姉の死を、悟った。
***
鶯の囀りに追い立てられるように歩を結び、置石の上を覚束ないままに渡る。私は美しい所作とあまり縁がないようで、日頃から婆やにお叱りを受けてばかりである。けれど、幾ら言われても、上手くできないものはできないのだ。
引きずる袴を踏みそうになって、すんでのところで堪えた。泥をつけてしまったら、今度はどのようなお叱りを受けるだろうか。想像するだに恐ろしく、私は軽く身震いをした。こめかみをつうと一筋、汗が伝った。もうじき、夏になる。
半ば逃げ込むように、私は青臭い庭の木々の間を潜り抜けた。無遠慮に突き出た枝に髪を引っ掛ける。構わずに進むと頭皮がひりっと痛んだ。背が小さいものだから袴の裾が余分に長い分、足の裏に絡まった。婆やは背などすぐ伸びると繰り返すが、兆しは一向に見えない。
淡紫色が束になって垂れている花を少し乱暴に払いのけると、甘苦い香りと共に視界が広がった。それまであまり前を見ずに走っていた私は、ここでようやく落ち着いて、知らない場所まで来たことを知る。蛙が住み込む小さな池に繋がった頼りない川がつるつると流れ、その上にはこぢんまりとした橋が渡してある。私の自室から覗ける風景にはないものである。
お屋敷には通っても良いところと近付いてはいけないところとがあって、後者に足を踏み入れようものならば、婆やのお説教は日がな一日続くに違いない。幾つもの壁や屏風に遮られて、それらの場所に近付くことは叶わないけれど、庭は全て繋がっている。いけない場所に辿り着いても致し方ない。それに、屋内でなく外ならば構わないだろう。そう自分に言い聞かせ、私は一歩踏み出す。
全体的に丸みを帯びた小さな橋には、人がいた。お付の女官一人と、女の人一人。身なりからしてこの屋敷の一族の誰かだろう。ここには血の繋がる人とそうでない人が普通よりも多く入り交じっているから、あまり見かけない人がいても不思議ではない。背中に広がる長い黒髪が重そうに垂れていた。
ふと、空気を動かさずにその女の人が振り返る。すると、身を隠すこともなく呆然と立っていた私としっかり目が合った。細くまなじりの下がった瞳を覗いて、私は思い出した。そうだ、この人は私の腹違いの姉にあたる人だ。一族の会合をお休みすることの多い方だから、こうして顔と顔を確かめ合うのは久方ぶりである。すぐに思い出せない筈であった。
名を、蓮、と言う。
「こんにちは、藤姫」
私が挨拶をする前に、蓮姫が口を開いた。見るからに細く折れそうな外見とは裏腹に、紡がれた声は低めである。何でも幼い頃から何度もお風邪を召されたために、喉を悪くされているそうだ。嗄れているなりに聴き取りやすい発音であると思うのだが、大人達はあまり良い顔をしない。
お声に表れている通りに、蓮姫は大変病弱な方である。生まれてこのかた臥せっている日の方が長く、寄合もご欠席すること度々、稀に出席されても気分を悪くされて中座することしばしば、という具合に筋金入りである。私の足りていない背の上で交わされる大人達の噂話によれば、蓮姫の母親も病弱な方で、出産が原因で亡くなったのだという。
「こんにちは、姉上。あの、」
だから、このように外でお見かけすことなどまずないのだが、現に出ている。これはどうしたのかと好奇心が疼き、同時に思っていることを表に出すなという婆やの教えを思い出して、私は何とか無難な言葉はないかとうろたえる。
「お加減はもう、よろしいのですか。春先に体調を崩されたと聞きました」
うろうろとした迷いの見える私の言葉を、蓮姫は黙って微笑みながらお聞きになっていた。どこもかしこも痩せていて美しいとは言えない風貌である蓮姫だが、表情や振る舞いはまるで大人のように優雅だ。いや、三つか四つしか渡しと違わないが、私とは違う、裳着を済ませた大人である。
「今日は殊の外気分が良くて、外の空気を楽しんでいたのですよ。お心遣い、ありがとう」
淑やかに笑うと、蓮姫の目尻に笑いじわが浮かんだ。私はそれを見上げてそっと溜息をつく。私はこのような佇まいができない。蓮姫は、どうしようもなく大人なのである。幾ら気張っても仕方ないのだ。
それでも、粗忽者と思われるのは恥ずかしいので、私は精一杯気取ってしずしずと足を進め、蓮姫の側まで寄った。途中、裾を三度踏みつけたが、すんでのところで表に出さなかった。川から上がる蛙のくぐもった声が近くなる。
「もう、夏になってしまうのね」
どうと風が吹いて、袖を揺らす。蓮姫の重そうな髪が幾筋か舞い上がって、風の合間を泳いだ。私は唐突に堪らなく寂しい気分に襲われる。蓮姫の低い声音は深みを帯びて私の心を覆い、詠嘆の呟きに内包された儚さが滲み出る。
***
一際強くお香の香るその部屋に通されたのは、日が傾き始めてからであった。
婆やに続いて几帳を潜ると、鼻を伝って喉に届くような匂いが広がる中で、白い布団を中心に人々が集っていた。この家の者も、そうでない者も、一様に押し黙って布団を取り囲んでいる。布団は北枕にされ、枕辺には火が灯されていた。
何をすれば良いのか見当もつかなくて婆やをそっと見上げると、顔に多く刻まれたしわをほんの少しだけ歪ませた婆やは、音も立てずに枕元に正座し、黙って手を合わせた。私もそれに倣い、単の裾が上手く広がるようにゆっくりと腰を下ろして手を合わせる。目を閉じてみたものの、やはり何を念じれば良いのかも分からず、私はただ息を殺した。
近くで火を灯されているものだから、汗が次々に額を伝う。こんなに暑い日にむせ返るような匂いの中でじっと押し黙っていられるなんて信じられないが、それが大人というものなのかもしれない。一番押し黙ってものを言うことがない人は、白い布団に包まれて尚、僅かでも動くことさえしない。
首筋の裏が気持ち悪く湿ってきた。もう良い頃合かと顔を上げると、婆やはまだ頭を垂れて一心に祈っていた。一旦降ろした手をまた戻すわけにもいかず、私は迷いに迷って人と目線が合わないように注意して視線を彷徨わせる。
白い布で覆われている目の前のものは、本当に人かどうかすら疑わしい。手を伸ばして顔にかけられた白い布を取り払うことは容易であるけれども、そんなことを勝手にしようものなら婆やの眉間のしわをいたずらに増やすだけである。