君が世界
1.あなたが空から落ちてきた
獣の姿には少しの間戸惑ったが、別にそれほど使い方が違うわけでもなかった。ただ手を使えないことを抜かせば足も速いし高く跳べるし泳げるし、不便はない。そもそも手を使わねばならないようなこともあまりなかったので、すぐに慣れてしまった。
この森には鹿、猿、狼、山猫、鷹などいろいろな動物がいるようだったが、彼女と同じ生き物はいなかった。見た目から考えて、おそらく自分は草食なのだろう。肉食と思われる獣もいたのだが、かれらを見ても足がすくんだり恐怖を覚えたりすることもなく、また危害を加えられることもなかった。
森中をゆっくり探索しながら、気に入る場所で眠り、また探索した。動物とも仲良くなった。通じ合えるわけではないものの、彼女が困っていると助けてくれることがよくあった。一緒に遊ぶこともあった。
いろいろ歩きながら調べているうちに、落ちている果物や花を食べることを覚えた。苔も食べようと思えば食べられた。そうしているうちに気づいたのは、どうやら食べるものはそうした果実や花そのものではなく、気配、というのだろうか、それに付随する何かであるらしいことだった。
時折、狼や山猫が自ら取った獲物である兎などを彼女に持ってきてくれることがあったが、彼女はその肉を食べずにそこにある気配だけを取って食べることができた。肉はそのまま狼たちが食べた。
けれど横からつまみ食いをしたようで何か申し訳なく、食べた気配はなるべくその獲物を持ってきたものに分け与え、近くに寄ってくるものがいればその動物にも分け与えることにしていた。
動物たちはそうして彼女が分け与える気配が好きであるらしかった。
一月も経つとすっかりその生活に慣れ、森もだいたいのところは探索し終えた。森の途切れる場所も確認した。でも、その先へ行こうとは思わなかった。
この森が途切れると、気配はごくごく薄くなるのだ。それはつまり、食事ができなくなるということだ。
出て行く理由もないし、出て行きたいとも思わなかった。この森は居心地がいい。
二月が経ち、三月が経ち、一年が過ぎた。
彼女はもう、森で生まれ、生まれたときから獣の姿だったようにすら感じていた。
しかしそうした日々を過ごすうちに、森のはるか上を何かうるさいものがよく通っていくようになった。
そしてある日、激しい音を立てて何かが落ちてきた。森の枝々をへし折りながら落ちてきたそれは、湖にしぶきを上げて沈んでいった。
森の動物たちは耳をぴんと立ててそれを見守っていた。彼女も同じように見守っていると、水面にぷかりとそれが浮かび上がってきた。
人間だった。
浮かび上がったもののまた沈みそうになって、彼女はあわてて湖の中へ入り、人間の首根っこを捕まえて岸まで運んだ。
人間の顔に鼻面を押し当ててみる。息をしていない。どうしようと混乱しながらも顔を何度も舐めると、しばらくして人間は突然咳き込んで、水を吐き出した。もう一度鼻面を押し当ててみると、今度はかすかに息をしている。よかった。
彼女は改めてまじまじと人間を見下ろした。
人間は男だった。
水に濡れてきらきらする金色の髪に、褐色の肌。目を閉じた顔は彫りが深い。小さいな、と思った。というのも、今の彼女は人間の数倍の大きさがあったからだ。
その小さい人間は、鎧のようなものを着ていた。といっても全身を覆うようなものではなく、胸や肩などを覆う程度の革鎧だ。籠手や具足も巻いている。それに彼女の世界でいうところの中世のマントのようなものをつけていた。マントはところどころ破れていたし、腹の辺りからは血がにじんでいた。
(こんなに小さいのに)
ひどい怪我をしている。彼女は悲しくなった。助けなければ、と思った。
腹の辺りに鼻面をひっつけて服をめくりあげると、傷口を探した。すぐにわかった。矢が刺さったのだろう。落下の途中で折れたのか、それとも自分で折ったのか、貫通した矢はほとんどの部分が体の中にあった。
傷にさわらないようにゆっくりと人間の体をひっくり返す。背側に鏃が飛び出していたので、それを歯で挟み、そっと引き抜いた。
低い呻き声がして、血もあふれたのであわてて傷口を舐めた。舐めているうちに血は止まった。
人間が呻いたのは矢を引き抜いた一瞬だけで、意識を取り戻したわけではないらしい。
よく見ると満身創痍だし、びしょ濡れだし、このまま放っておいたら確実に熱を出して死んでしまうだろう。
(もう少しだけ、我慢してね)
彼女は人間の首根っこをくわえると、ひとまず今自分が使っている寝床まで急いで運んだ。
彼女の今の寝床は、樹齢千年以上ありそうな木のうろだった。中は広いし、上の方に横穴があいているので、雨は入らないが日の光は入る。そのためいつでも中は乾いていて、運んできた枯草がふかふかしているのがお気に入りだった。
その寝床に、人間を寝かせると彼女は考えた。
(まずは傷の手当てよね)
人間の時の知識が少しだけ戻ってくる。消毒、清潔な包帯、薬……そんなことが思い浮かんだが、どれもこの森では難しい。
さてどうしようと思ったところで、いくらなんでも鎧は脱がせないと苦しいだろうと気づいた。
といっても手が使えない。
(金具を噛み壊せばなんとか……でも壊したら困るだろうし)
こんなところでも人間の知識が邪魔をする。
悩んでいると、きぃと鳴き声がした。振り向くとうろの入り口に何匹も小さな猿がいて、彼女が振り向いたのに気づくと中へ入ってきた。
きぃきぃと鳴きながら、器用に人間の鎧の金具を外していく。あっという間にベルトまで外してしまった。猿が助けてくれたことはありがたい。
(ありがと)
鼻面を猿の小さな頭につんとくっつけた。彼女が口を開ければ丸呑みできそうな小さな猿だが、そうしてもまったく嫌がる様子を見せないばかりか、髭やのどの辺りを両手でわしゃわしゃと掻いてくる。彼女は目を細めて、ほんの少しだけ気配を分けてやった。我も我もと集まってくる猿に同じようにわけてやる。
首や頭に猿をひっつかせたまま、彼女は人間の方へ向き直った。
(マントも外した方がいいかな)
留め金はすでに猿が外してくれていたようで、端をくわえて引くとはらりと取れた。敷布のような形になったのでちょうどいい。
籠手や具足も猿の手を借りながら外し終わると、思わず顔をしかめた。
首から右肩にかけてひどい火傷を負っていた。革鎧の肩当てが半分以上溶け落ちている。頬も少しただれていた。思わず頬から首にかけてを舐めあげ、それから肩へと舌を伸ばすと肩当てがべろりとはがれた。皮膚ごと剥がれ落ちたようだ。血のにじむ傷口が痛ましく、ひたすら血を舐め取った。
猿たちが湖のそばに生えている苔をむしってきたのか、差し出すのでたぶん薬草か何かなのだろう。ぺたぺたと傷に貼り付けた。
肩以外にも、右腕と左足が腫れ上がり紫色に染まっていた。詳しい医療知識があるわけでもないのでなぜそうなったのかなどわからない。