拝み屋 葵 【肆】 ― 師道隘路 ―
「天狗狩りに遭遇したらしく」
「天狗狩りの噂は聞いている。いや実は、その件で参られるのであろうと思い、この葵を同席させたのだ」
当然ながら、葵は初耳である。
正眼坊は、師に対して遠慮の無い抗議の視線を放つ葵をちらりと見てから、何事もなかったように話を再開した。
「比良殿は、今回の天狗神楽一番笛奏者をご辞退なさったのです」
「それで太郎坊殿と僧正坊殿は、どちらが代役を出すかで争っているのか」
「いえ……」
正眼坊は言葉を濁し、恥じ入るように頭を垂れた。
「一番笛は踊り手に次ぐ花形だろうに」
天狗神楽は、八大天狗の交流と友好、つまりは親善のための催しだ。その大舞台で一番笛を務めることは、天狗の社会において笛奏者の最高級の栄誉となる。一人の天狗が一番笛を務められるのは、ただの一度のみ。長い天狗神楽の歴史において例外はない。
「実は、その一番笛が使う迦楼羅(かるら)笛が破損してしまったのです」
迦楼羅天は、鳥の頭、人の身体、一対の翼を持つ仏法守護の神。その姿は鴉天狗に影響を与えたとされている。
「修繕は可能ですが、今回の神楽には間に合わぬのです」
ただ一度のみの一番笛は、そのまま迦楼羅笛を吹ける唯一の機会ということになる。
迦楼羅笛を吹けるただ一度の機会を捨てる者などいない、ということだ。
* * *
葵は戦慄を覚えた。
師の横顔から表情が消えていく、感情という熱を失って凍り付いていく、ただその様を傍から見ていただけであったのに。
葵の視界の端に僅かに映る正眼坊は、比較しようとすることさえもがおこがましい状況に晒されていた。
六尺五寸の偉丈夫が、塩を振られたナメクジの如く萎縮している。
酒で上気していたはずの頬には微塵の赤みも見えず、滴り落ちるほどの汗がびっしりと貼り付いている。怒気でも殺気でもない尋常ならざる気によって、瞬き一つどころか、息を吸うことも吐くことも許されず、いや、禁止されてはいないのだが、それらは決して実行できるものではなかった。
「棟梁であればこそ、か」
ぽつりと呟かれたそれは、嘆きの言葉であった。
「葵。この件は任せる」
師が“任せる”と発したとき、それは葵に課せられた修行であり、葵に与えられた試練であるということだ。そして師は、決して不可能な物事を示したりはしない。葵は、師が口にする言葉は冗談ではないことを知っている。
日本全国津津浦浦、どこであろうと訪問するのが流儀。葵は師の流儀に従うだけだ。返事をする必要もない。
盃を置いて去る師の背中を黙って見送った葵は、血の気を失った蒼白な面持ちの正眼坊に視線を移した。
「お師匠はん、おっかないわぁ」
「今のは一体?」
正体不明の圧力から解放された正眼坊が、思いのままの困惑を口にする。
葵は、空になっている自分の盃に手酌し、それから正眼坊にも勧めた。
「“無在(むざい)”っちゅう奥義の一つですねん」
自と他は、互いに認識しあうことでその存在を確立している。自が世界を認識することで、世界はその存在を確立する。認識する者がいなければ、それは無いと同じである、ということだ。自もまた、他によって認識されることでその存在を確立している。誰にも認識されなければ、いないものと同じだ。
そうした陰陽道の思想に基き、それを突き詰めたものが、奥義・無在。特定の“他”を意図的に認識しないこと。それにより“他”は存在を確立できなくなる。
正眼坊が受けた圧力の正体は“存在そのものの揺らぎ”。自身の存在に対する不安。その先にあるのは、存在の消失へと繋がる螺旋階段だ。
存在していないものからは一切の影響を受けることはなく、一切の影響を与えることもできないが、存在の確立を失ったものは、その存在が消失するのをただ待つのみとなる。
奥義・無在に対抗できる術はない。それは、対象に対して何かを行っているわけではないからだ。ただ、完全に認識していないだけだ。
「奥義の秘密をそのように簡単に明かしてしまっては」
「奥義いうもんは、基本を重ねて修めた結果、ようやっと辿り着けるもんどすやろ? せやったら、奥義も基本も同じもんやさかい。隠すことあらへん」
葵はケラケラと笑った。その上気した頬は朱色に染まっている。
正眼坊は、言い掛けた言葉を飲み込んで、全く別の言葉を吐き出した。
「磐長殿は任せると言われたが、葵殿には良い解決策がありましょうか?」
「ウチは何にも分からしまへん。けど、お師匠はんは解決策を示してくれはりましたやんか」
正眼坊は怪訝そうに首を傾げる。その間に葵は盃を空にし、再び酒を満たした。正眼坊はまだ先ほど葵が注いだ分に口をつけていない。
「愚道にはさっぱり」
「お師匠はんは、あぁ見えてお人好しやさかい。友人の頼みを無責任に丸投げするなんてようしまへん。それでもウチに任せたんは、何かの理由があるんですわ」
「理由とは?」
正眼坊は、期待の眼差しを葵に向けた。
「ウチにもさっぱりやー」
葵は空になった徳利を二度三度と振って、不機嫌そうに眉をひそめた。
「葵殿……」
正眼坊が呆れた視線を送る中、葵は師が去ったあとの座席が、不自然に盛り上がっていることに気が付いた。
座布団を捲ると、布製の細長い袋があった。
「お師匠はんのヘタクソ」
葵は布袋を手に取る。それはそれは丁寧に、赤子を抱き上げるように。
「それは?」
葵が袋を丁重に扱うのを見た正眼坊は、そう訊ねずには居られなかった。
長さ一尺五寸余り、折り返された先が端から二分あたりで括られている。藍染の着物地を使って作られた袋で、華美な紋様は無く、括られている橙の紐だけが栄えている。
葵は正眼坊の問いには答えず、紐の結びを解いて包まれていた黒く細い棒状のものを取り出した。
「おう、七片(ななひら)ではないか」
七片は、神楽笛や太笛と呼ばれる横笛である。歌口(息を吹きこむ穴)と六つの指孔を持ち、本体は黒塗り。七つの穴の付近に一片ずつの花弁が描かれていることから、七片という名が付けられている。
「お師匠はんの宝物や。知ってはりますのんか?」
「うむ。なんと懐かしい。あれは将軍が変わり、これからは戦の無い大平の世が続くのだと、侍を辞めて僧になろうと鞍馬山を訪れた時のこと……」
「その話、長うなります?」
「あ。いや失礼。ついつい懐かしさのあまり。その七片は迦楼羅笛と同じ六孔の横笛(おうじょう)だが、迦楼羅笛には決して勝らぬもの。代わりに使えということならば、まだ他にも良い笛がござる故」
「この笛の音を耳にしたことがありますのや?」
「愚道がまだ天狗となる前の話」
正眼坊は、懐古するように斜め上を見上げた。
「問題を整理するとやな」
葵は名残惜しそうに盃を置いて、姿勢を正した。
「二人の大天狗は、自分のところから代役を立てとうない。それはなんでかいうたら、ただの一度しかない晴れ舞台やのに、棒に振れ、なんて言われへんからやと思いますねん」
「確かに」
「せやかて、他の天狗の一派から誰かを出すんも酷い話や」
正眼坊は首肯する。
「せやったら、どこの誰でもない天狗やったらよろしおすやろ」
葵は、上気した頬に手を当てて、しっとりと笑った。
「天狗狩りの噂は聞いている。いや実は、その件で参られるのであろうと思い、この葵を同席させたのだ」
当然ながら、葵は初耳である。
正眼坊は、師に対して遠慮の無い抗議の視線を放つ葵をちらりと見てから、何事もなかったように話を再開した。
「比良殿は、今回の天狗神楽一番笛奏者をご辞退なさったのです」
「それで太郎坊殿と僧正坊殿は、どちらが代役を出すかで争っているのか」
「いえ……」
正眼坊は言葉を濁し、恥じ入るように頭を垂れた。
「一番笛は踊り手に次ぐ花形だろうに」
天狗神楽は、八大天狗の交流と友好、つまりは親善のための催しだ。その大舞台で一番笛を務めることは、天狗の社会において笛奏者の最高級の栄誉となる。一人の天狗が一番笛を務められるのは、ただの一度のみ。長い天狗神楽の歴史において例外はない。
「実は、その一番笛が使う迦楼羅(かるら)笛が破損してしまったのです」
迦楼羅天は、鳥の頭、人の身体、一対の翼を持つ仏法守護の神。その姿は鴉天狗に影響を与えたとされている。
「修繕は可能ですが、今回の神楽には間に合わぬのです」
ただ一度のみの一番笛は、そのまま迦楼羅笛を吹ける唯一の機会ということになる。
迦楼羅笛を吹けるただ一度の機会を捨てる者などいない、ということだ。
* * *
葵は戦慄を覚えた。
師の横顔から表情が消えていく、感情という熱を失って凍り付いていく、ただその様を傍から見ていただけであったのに。
葵の視界の端に僅かに映る正眼坊は、比較しようとすることさえもがおこがましい状況に晒されていた。
六尺五寸の偉丈夫が、塩を振られたナメクジの如く萎縮している。
酒で上気していたはずの頬には微塵の赤みも見えず、滴り落ちるほどの汗がびっしりと貼り付いている。怒気でも殺気でもない尋常ならざる気によって、瞬き一つどころか、息を吸うことも吐くことも許されず、いや、禁止されてはいないのだが、それらは決して実行できるものではなかった。
「棟梁であればこそ、か」
ぽつりと呟かれたそれは、嘆きの言葉であった。
「葵。この件は任せる」
師が“任せる”と発したとき、それは葵に課せられた修行であり、葵に与えられた試練であるということだ。そして師は、決して不可能な物事を示したりはしない。葵は、師が口にする言葉は冗談ではないことを知っている。
日本全国津津浦浦、どこであろうと訪問するのが流儀。葵は師の流儀に従うだけだ。返事をする必要もない。
盃を置いて去る師の背中を黙って見送った葵は、血の気を失った蒼白な面持ちの正眼坊に視線を移した。
「お師匠はん、おっかないわぁ」
「今のは一体?」
正体不明の圧力から解放された正眼坊が、思いのままの困惑を口にする。
葵は、空になっている自分の盃に手酌し、それから正眼坊にも勧めた。
「“無在(むざい)”っちゅう奥義の一つですねん」
自と他は、互いに認識しあうことでその存在を確立している。自が世界を認識することで、世界はその存在を確立する。認識する者がいなければ、それは無いと同じである、ということだ。自もまた、他によって認識されることでその存在を確立している。誰にも認識されなければ、いないものと同じだ。
そうした陰陽道の思想に基き、それを突き詰めたものが、奥義・無在。特定の“他”を意図的に認識しないこと。それにより“他”は存在を確立できなくなる。
正眼坊が受けた圧力の正体は“存在そのものの揺らぎ”。自身の存在に対する不安。その先にあるのは、存在の消失へと繋がる螺旋階段だ。
存在していないものからは一切の影響を受けることはなく、一切の影響を与えることもできないが、存在の確立を失ったものは、その存在が消失するのをただ待つのみとなる。
奥義・無在に対抗できる術はない。それは、対象に対して何かを行っているわけではないからだ。ただ、完全に認識していないだけだ。
「奥義の秘密をそのように簡単に明かしてしまっては」
「奥義いうもんは、基本を重ねて修めた結果、ようやっと辿り着けるもんどすやろ? せやったら、奥義も基本も同じもんやさかい。隠すことあらへん」
葵はケラケラと笑った。その上気した頬は朱色に染まっている。
正眼坊は、言い掛けた言葉を飲み込んで、全く別の言葉を吐き出した。
「磐長殿は任せると言われたが、葵殿には良い解決策がありましょうか?」
「ウチは何にも分からしまへん。けど、お師匠はんは解決策を示してくれはりましたやんか」
正眼坊は怪訝そうに首を傾げる。その間に葵は盃を空にし、再び酒を満たした。正眼坊はまだ先ほど葵が注いだ分に口をつけていない。
「愚道にはさっぱり」
「お師匠はんは、あぁ見えてお人好しやさかい。友人の頼みを無責任に丸投げするなんてようしまへん。それでもウチに任せたんは、何かの理由があるんですわ」
「理由とは?」
正眼坊は、期待の眼差しを葵に向けた。
「ウチにもさっぱりやー」
葵は空になった徳利を二度三度と振って、不機嫌そうに眉をひそめた。
「葵殿……」
正眼坊が呆れた視線を送る中、葵は師が去ったあとの座席が、不自然に盛り上がっていることに気が付いた。
座布団を捲ると、布製の細長い袋があった。
「お師匠はんのヘタクソ」
葵は布袋を手に取る。それはそれは丁寧に、赤子を抱き上げるように。
「それは?」
葵が袋を丁重に扱うのを見た正眼坊は、そう訊ねずには居られなかった。
長さ一尺五寸余り、折り返された先が端から二分あたりで括られている。藍染の着物地を使って作られた袋で、華美な紋様は無く、括られている橙の紐だけが栄えている。
葵は正眼坊の問いには答えず、紐の結びを解いて包まれていた黒く細い棒状のものを取り出した。
「おう、七片(ななひら)ではないか」
七片は、神楽笛や太笛と呼ばれる横笛である。歌口(息を吹きこむ穴)と六つの指孔を持ち、本体は黒塗り。七つの穴の付近に一片ずつの花弁が描かれていることから、七片という名が付けられている。
「お師匠はんの宝物や。知ってはりますのんか?」
「うむ。なんと懐かしい。あれは将軍が変わり、これからは戦の無い大平の世が続くのだと、侍を辞めて僧になろうと鞍馬山を訪れた時のこと……」
「その話、長うなります?」
「あ。いや失礼。ついつい懐かしさのあまり。その七片は迦楼羅笛と同じ六孔の横笛(おうじょう)だが、迦楼羅笛には決して勝らぬもの。代わりに使えということならば、まだ他にも良い笛がござる故」
「この笛の音を耳にしたことがありますのや?」
「愚道がまだ天狗となる前の話」
正眼坊は、懐古するように斜め上を見上げた。
「問題を整理するとやな」
葵は名残惜しそうに盃を置いて、姿勢を正した。
「二人の大天狗は、自分のところから代役を立てとうない。それはなんでかいうたら、ただの一度しかない晴れ舞台やのに、棒に振れ、なんて言われへんからやと思いますねん」
「確かに」
「せやかて、他の天狗の一派から誰かを出すんも酷い話や」
正眼坊は首肯する。
「せやったら、どこの誰でもない天狗やったらよろしおすやろ」
葵は、上気した頬に手を当てて、しっとりと笑った。
作品名:拝み屋 葵 【肆】 ― 師道隘路 ― 作家名:村崎右近