拝み屋 葵 【肆】 ― 師道隘路 ―
* * *
とにかく話は一献呑み干してからだ、と強引に酒を勧められ続けた僧衣の男は、では失礼して、と丁重に断りを入れてから大広間に足を踏み入れ、用意されていた座に着いた。
すると、身を覆っていた不自然な暗さが消え去り、容貌がはっきりと見えるようになった。
身の丈は六尺五寸の偉丈夫で、肌は赤褐色、顎口には達磨の如き髭を蓄え、頭髪は硬く総じて逆立っていた。
「この者は三宮葵。俺が面倒を見ている者だ」
「よろしゅうおたの申します」
師の紹介を受け、葵は深々と頭を下げた。指先の突き方から角度、間合い、呼吸、どれをとっても非の打ち所の無いお手本のような一礼であった。
僧衣の男は、ほぉ、と感嘆の声を上げた。
「いやはや、まさか女子(おなご)を囲う甲斐性をお持ちであったとは」
言いながら、盃に残った酒を一息に飲み干す。
それを見た葵は、酌をしようと身を起こし掛けたのだが、傍らに坐す師がかざした手によって妨げられた。
「葵ちゃんも飲みなさい」
さすがにこれには葵も驚いた。師の客人を放って酒を飲むなど、礼を逸した行為である。師の思惑を読み取ろうと試みるも、それは予想通りに叶わなかった。だが、師の目には拒否を断ずる光があった。
僧衣の男もまた違和感を禁じ得ずして、その視線を送っていた。
「これは弟子なのだ」
葵に手渡した白塗りの盃に酒を注ぎながら、飄々と言う。
「弟子と申されたか!? 磐長殿!」
僧衣の男は、カッ、と目を見開いて身を乗り出す。
「うん」
だが、返るは淡白に頷く声のみ。
「イワナガ?」
間髪入れずに葵が訊ねる。
「うん」
同じく、返るは淡白に頷く声のみ。
ハッ、と何か気に気付いたように息を飲んだ僧衣の男は、慌てた様子で胡坐から正座へと足を組み換え、膝行(しっこう)にて後退した。
「先ほどの愛妾の如き物言い、何卒ご容赦願いたく!」
「へ?」
葵は再び面食らい、畳に額を押し付けんばかりに平伏する僧衣の男を、ただ唖然と眺めるばかりだった。
「正眼殿、顔を上げるのだ。紹介の仕方がまずかったのだ。許せ」
事態を重く見たのか、凛とした口調も荘厳な響きが宿る。
「しかしっ!」
僧衣の男は一向に顔を上げようとしない。
膠着の気配を感じた葵は、事態を解決すべく状況の整理を始めたが、何しろ相手の素性も分からないのであるから、あっという間に頓挫してしまった。
「お師匠はん」
葵は堪らず師に助けを求めた。
「紹介するから、一先ず顔を上げておくれ」
僧衣の男は身を固めたまま上体を起こした。その表情も強張っている。
「こちら、安葉正眼坊(あんばしょうげんぼう)殿だ」
「鞍馬山僧正坊一門、大杉常陸坊門下、安葉正眼と申しまする。以後、お見知りおきを」
正眼坊は、背筋を伸ばして姿勢を正し、先程葵が見せた一礼にも等しい挨拶を行った。
「僧正坊殿とは浅からぬ付き合いでな。甚く気に入って下さり、一門の者に“吾と思い接せよ”と言って下さっているのだ。正眼殿とはまた別に友交があって、二人だけのときはこのように楽にしている」
師弟間の上下関係を表す、拝師(はいし)という制度がある。
拝師では、師匠を師父(しふ)と呼び、師父の師父を師爺(しじ)と呼ぶ。正眼坊の場合、師父は大杉常陸坊であり、師爺は鞍馬山僧正坊となる。この鞍馬山僧正坊が“自分と同じと思え”と言っているのであるから、葵は鞍馬山僧正坊の弟子と同じ扱いとなる。師爺の直弟子は、師父とほぼ同格の師父の兄弟弟子、師伯または師叔にあたる。葵は正眼坊の師叔にあたるので、立場的には格上となるのだ。
難しければ、師匠と同格の相手に生意気を言ってしまった、と考えてもらえれば良い。
「分かりやすく言えば、葵ちゃんがソフィアに“行き遅れ”と言ってしまったようなものだよ」
「それは違いますやろ」
葵の裏手が、ビシリ、と空間を叩いた。
「ともかく、正眼坊はん。そういうんはウチも苦手やさかい、気楽にしててもろたほうがウチも助かりますによって」
「ほれほれ、盃を出すのだ正眼殿」
三人はそれぞれの盃に酒を注ぎ、一息に飲み干した。尤も、正眼坊が持つ瑠璃の盃の容量は尋常ではない。
「お人、やあらへんみたいどすけど」
葵は、改めて師と正眼坊の盃に酒を注いだ。
「仙の道を往く者。有り体に言えば、天狗、だな」
「はー、天狗はんどしたか。せやからお酒を呑まはるんや」
「仙の者は、誰であっても酒を呑むのです。むしろ、酒以外は咽喉を通らぬと言っても良い」
正眼坊は、葵が注いだ瑠璃の盃を高く掲げ、一礼してから口をつけた。残る二人は、苦笑いでその様子を見守っていた。
「しかし、磐長殿が弟子を求めるとは、この正眼、夢にも思いませなんだ」
「長生きはしてみるものだろう?」
「まったくです」
正眼坊は、がはは、と豪快に笑った。
「お師匠はん、お訊ねしてもよろしーか?」
葵には早くも酔いが回リ始めていた。それもそのはず、徳利に入っているのは仙の者が呑む酒。詳しい解説は省くが、とにかく強い酒だということだ。
「名前のことか? 数ある名の一つだ。名が売れる度に変えてきたのだ」
事実ではあるが、真相ではない。そんな答えだったが、葵はそれで納得しておくことにした。
「それより正眼殿、僧正坊殿からの用務とやらを聞かせて頂こうか」
「ほんならウチは」
正眼坊の視線を感じた葵は、退出の旨を口にする。
「待て、同席するのだ」
席を立とうとしたが、すぐさま師によって制されてしまった。
それを受けた正眼坊は、葵が込み入った話をしても良い程度の力量を備えた人物であるという認識を持った。
「では葵殿にも聞いて頂きますが、他言無用に願いますぞ」
正眼坊がわざわざ念を押したのは、葵を信用していないからなどではなく、話を始めるための間を整えたに過ぎない。そのため、正眼坊は葵の返答を求めておらず、もちろん葵もそのことを承知していた。
「ご存知の通り、吾が主、鞍馬山僧正坊は八天狗の一人でありまして……」
鞍馬山僧正坊(くらまやま・そうじょうぼう)。
鞍馬天狗の名で知られている、日本一有名であろう天狗。八天狗の一人。かの有名な源九郎判官義経に剣術や戦略を教えたとされている。その正体は鞍馬東光坊連忍であったり、剣術は修験者・黒野慈現坊より、兵法は陰陽師・鬼一法眼が所持していた『六韜』『三略』より、それぞれ得たものであるなど、諸説様々である。
「簡潔に」
「では、単刀直入に。愛宕殿との仲立ちをお頼みしたく」
「太郎坊殿か」
愛宕山太郎坊(あたごやま・たろうぼう)。
その名の通り、京都府愛宕山に拠を持つ大天狗であり、天狗の中で最大の勢力を持つと言われている。八天狗の一人。
「今年は天狗神楽の年なのです。毎回、踊り手一人、奏者七人をそれぞれ八大天狗の眷属から一人ずつ持ち回りで担当しておったのですが、今回、一番笛を担う比良殿の元に不測の事態が起こりまして」
比良山次郎坊(ひらやま・じろうぼう)。
琵琶湖西岸に広がる比良山地に住まう大天狗。その勢力は愛宕山太郎坊に並ぶ。八天狗の一人。
「ほほう」
葵は、師の興味深げな微笑みに、正体不明の不安を感じていた。
とにかく話は一献呑み干してからだ、と強引に酒を勧められ続けた僧衣の男は、では失礼して、と丁重に断りを入れてから大広間に足を踏み入れ、用意されていた座に着いた。
すると、身を覆っていた不自然な暗さが消え去り、容貌がはっきりと見えるようになった。
身の丈は六尺五寸の偉丈夫で、肌は赤褐色、顎口には達磨の如き髭を蓄え、頭髪は硬く総じて逆立っていた。
「この者は三宮葵。俺が面倒を見ている者だ」
「よろしゅうおたの申します」
師の紹介を受け、葵は深々と頭を下げた。指先の突き方から角度、間合い、呼吸、どれをとっても非の打ち所の無いお手本のような一礼であった。
僧衣の男は、ほぉ、と感嘆の声を上げた。
「いやはや、まさか女子(おなご)を囲う甲斐性をお持ちであったとは」
言いながら、盃に残った酒を一息に飲み干す。
それを見た葵は、酌をしようと身を起こし掛けたのだが、傍らに坐す師がかざした手によって妨げられた。
「葵ちゃんも飲みなさい」
さすがにこれには葵も驚いた。師の客人を放って酒を飲むなど、礼を逸した行為である。師の思惑を読み取ろうと試みるも、それは予想通りに叶わなかった。だが、師の目には拒否を断ずる光があった。
僧衣の男もまた違和感を禁じ得ずして、その視線を送っていた。
「これは弟子なのだ」
葵に手渡した白塗りの盃に酒を注ぎながら、飄々と言う。
「弟子と申されたか!? 磐長殿!」
僧衣の男は、カッ、と目を見開いて身を乗り出す。
「うん」
だが、返るは淡白に頷く声のみ。
「イワナガ?」
間髪入れずに葵が訊ねる。
「うん」
同じく、返るは淡白に頷く声のみ。
ハッ、と何か気に気付いたように息を飲んだ僧衣の男は、慌てた様子で胡坐から正座へと足を組み換え、膝行(しっこう)にて後退した。
「先ほどの愛妾の如き物言い、何卒ご容赦願いたく!」
「へ?」
葵は再び面食らい、畳に額を押し付けんばかりに平伏する僧衣の男を、ただ唖然と眺めるばかりだった。
「正眼殿、顔を上げるのだ。紹介の仕方がまずかったのだ。許せ」
事態を重く見たのか、凛とした口調も荘厳な響きが宿る。
「しかしっ!」
僧衣の男は一向に顔を上げようとしない。
膠着の気配を感じた葵は、事態を解決すべく状況の整理を始めたが、何しろ相手の素性も分からないのであるから、あっという間に頓挫してしまった。
「お師匠はん」
葵は堪らず師に助けを求めた。
「紹介するから、一先ず顔を上げておくれ」
僧衣の男は身を固めたまま上体を起こした。その表情も強張っている。
「こちら、安葉正眼坊(あんばしょうげんぼう)殿だ」
「鞍馬山僧正坊一門、大杉常陸坊門下、安葉正眼と申しまする。以後、お見知りおきを」
正眼坊は、背筋を伸ばして姿勢を正し、先程葵が見せた一礼にも等しい挨拶を行った。
「僧正坊殿とは浅からぬ付き合いでな。甚く気に入って下さり、一門の者に“吾と思い接せよ”と言って下さっているのだ。正眼殿とはまた別に友交があって、二人だけのときはこのように楽にしている」
師弟間の上下関係を表す、拝師(はいし)という制度がある。
拝師では、師匠を師父(しふ)と呼び、師父の師父を師爺(しじ)と呼ぶ。正眼坊の場合、師父は大杉常陸坊であり、師爺は鞍馬山僧正坊となる。この鞍馬山僧正坊が“自分と同じと思え”と言っているのであるから、葵は鞍馬山僧正坊の弟子と同じ扱いとなる。師爺の直弟子は、師父とほぼ同格の師父の兄弟弟子、師伯または師叔にあたる。葵は正眼坊の師叔にあたるので、立場的には格上となるのだ。
難しければ、師匠と同格の相手に生意気を言ってしまった、と考えてもらえれば良い。
「分かりやすく言えば、葵ちゃんがソフィアに“行き遅れ”と言ってしまったようなものだよ」
「それは違いますやろ」
葵の裏手が、ビシリ、と空間を叩いた。
「ともかく、正眼坊はん。そういうんはウチも苦手やさかい、気楽にしててもろたほうがウチも助かりますによって」
「ほれほれ、盃を出すのだ正眼殿」
三人はそれぞれの盃に酒を注ぎ、一息に飲み干した。尤も、正眼坊が持つ瑠璃の盃の容量は尋常ではない。
「お人、やあらへんみたいどすけど」
葵は、改めて師と正眼坊の盃に酒を注いだ。
「仙の道を往く者。有り体に言えば、天狗、だな」
「はー、天狗はんどしたか。せやからお酒を呑まはるんや」
「仙の者は、誰であっても酒を呑むのです。むしろ、酒以外は咽喉を通らぬと言っても良い」
正眼坊は、葵が注いだ瑠璃の盃を高く掲げ、一礼してから口をつけた。残る二人は、苦笑いでその様子を見守っていた。
「しかし、磐長殿が弟子を求めるとは、この正眼、夢にも思いませなんだ」
「長生きはしてみるものだろう?」
「まったくです」
正眼坊は、がはは、と豪快に笑った。
「お師匠はん、お訊ねしてもよろしーか?」
葵には早くも酔いが回リ始めていた。それもそのはず、徳利に入っているのは仙の者が呑む酒。詳しい解説は省くが、とにかく強い酒だということだ。
「名前のことか? 数ある名の一つだ。名が売れる度に変えてきたのだ」
事実ではあるが、真相ではない。そんな答えだったが、葵はそれで納得しておくことにした。
「それより正眼殿、僧正坊殿からの用務とやらを聞かせて頂こうか」
「ほんならウチは」
正眼坊の視線を感じた葵は、退出の旨を口にする。
「待て、同席するのだ」
席を立とうとしたが、すぐさま師によって制されてしまった。
それを受けた正眼坊は、葵が込み入った話をしても良い程度の力量を備えた人物であるという認識を持った。
「では葵殿にも聞いて頂きますが、他言無用に願いますぞ」
正眼坊がわざわざ念を押したのは、葵を信用していないからなどではなく、話を始めるための間を整えたに過ぎない。そのため、正眼坊は葵の返答を求めておらず、もちろん葵もそのことを承知していた。
「ご存知の通り、吾が主、鞍馬山僧正坊は八天狗の一人でありまして……」
鞍馬山僧正坊(くらまやま・そうじょうぼう)。
鞍馬天狗の名で知られている、日本一有名であろう天狗。八天狗の一人。かの有名な源九郎判官義経に剣術や戦略を教えたとされている。その正体は鞍馬東光坊連忍であったり、剣術は修験者・黒野慈現坊より、兵法は陰陽師・鬼一法眼が所持していた『六韜』『三略』より、それぞれ得たものであるなど、諸説様々である。
「簡潔に」
「では、単刀直入に。愛宕殿との仲立ちをお頼みしたく」
「太郎坊殿か」
愛宕山太郎坊(あたごやま・たろうぼう)。
その名の通り、京都府愛宕山に拠を持つ大天狗であり、天狗の中で最大の勢力を持つと言われている。八天狗の一人。
「今年は天狗神楽の年なのです。毎回、踊り手一人、奏者七人をそれぞれ八大天狗の眷属から一人ずつ持ち回りで担当しておったのですが、今回、一番笛を担う比良殿の元に不測の事態が起こりまして」
比良山次郎坊(ひらやま・じろうぼう)。
琵琶湖西岸に広がる比良山地に住まう大天狗。その勢力は愛宕山太郎坊に並ぶ。八天狗の一人。
「ほほう」
葵は、師の興味深げな微笑みに、正体不明の不安を感じていた。
作品名:拝み屋 葵 【肆】 ― 師道隘路 ― 作家名:村崎右近