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拝み屋 葵 【肆】 ― 師道隘路 ―

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 *  *  *

 ―― 三日後。
「急用やと伺いましたんで、飛んで来ました」
 三十畳はあろうかという大きな部屋。
 大急ぎで参上した葵は、いつも師と対面する際に身に着ける着物姿ではなく、普段通りのタンクトップにミリタリー調のカーゴパンツ姿であった。その脇には、一枚羽織ってきた上着が丸めて置かれている。
「ほぉ、やるものだな。知らぬ間に飛翔の術を会得するとは」
 簾の向こうから響く荘厳な声に、葵は苦笑いを返す。
「お師匠はん……ホンマ頼んますわ」
「分かっておる。ほんの戯れだ、許せ」
「ウチが言うてるのは、簾のことどすねん」
 暫しの沈黙のあと、軽快な音と共に巻き上げられた簾の向こう側から、にへら、とした緩み切った顔が現れた。
「たまにはやっておかないと、忘れちゃうからね」
「幻滅されまっせ」
「誰に?」
「もうよろしおす。それより、薄(すすき)はんが急用やと言うてはったんどすけど」
 薄とは、葵の師匠が使役している式(式神)だ。“メガネを掛けた文学少女”という形容がこれ以上なく当てはまる外見をしている。移動能力と家事全般に長けており、主人に『最も役に立つ』と絶賛されて舞い上がっているが、詰まるところは丁稚である。
「古い知り合いなんだが、急遽ここに訪ねて来ることになったんだわ。いい機会だから、紹介しておこうと思ってね。ほら、例の相談の参考になるかもしれないし」
「そういうことやったら、喜んで同席させてもらいますによって」
「うん。諸々の準備は薄に頼んであるから、着替えてきなさい」
「このままやとあきまへんか?」
「古風な奴でね。女の子の肌を見ると、興奮しちゃうのよ」
「肌て、大袈裟やな」
 葵が身に付けているタンクトップからは、二の腕や肩が露出している。健康的なそれらは魅力的ではあるが、興奮するという類ではない。
「免疫が無いんだよ」
「なんや、けったいなお客はんみたいどすな」
 葵の視線は、そのときに縁側を歩いてやってきた薄が抱えていた、直径三十センチを超える大きな瑠璃の盃に注がれていた。
 遥かな昔、瑠璃とはガラス製品を指した言葉であったが、薄が抱えているのは正真の瑠璃、ラピスラズリの盃だ。群青の空の色という意味を持つ、人類が最初に手に入れたとされる宝石。現代においてその価値は決して高いとは言えないが、深く青い輝きは数千の年を経ても変わることはない。
「ほんなら、着替えてきますさかい」

 葵が着替えを終えたのは、大広間を退出した二十分後のことであった。
 幾許かの黒の縦縞が入った白地の着物に、黒に程近い濃い藍の帯を合わせ、髪を結い直し、纏めて上げている。
 秋に白地の着物を着るのは、侘しさや哀しさを感じさせてしまうという理由から敬遠されがちであるが、白は五行思想において秋を示す色なのである。
 白とは言うものの、くすんだ、と言えば聞こえは悪いが、決して純白でも白無垢でもない。
「終わりましたよ」
 途中から着替えを手伝いに来た薄は、嫌がる葵に半ば強引に化粧を勧め、数分に及ぶ水掛問答の末、極々軽い化粧のみ、という譲歩を引き出していた。
 普段の葵がほとんど化粧をしていないせいもあって、眉を整えて薄いシャドーと紅を引けば、それだけで十二分に見違える。
 葵は、薄から渡された手鏡に映った自分の顔を見て脱力する。
「違和感バリバリ、ちゅうやつや」
「そんなことありません、お綺麗ですよ」
 ロサンゼルスのパーティーに出席する際、葵を淑女へと変身させたのは、この薄なのだ。
「そろそろお化粧も覚えませんとぉ、またソフィア様に――」
「そのうちに、やな」
 葵は、すい、と立ち上がり、屋敷の外周を伝う濡れ縁へと歩み出る。
「お台所にお酒が置いてありますから、お願いしても宜しいですかぁ?」
 両手を合わせて顔の横に添え、同時に倒す。ぶりぶりとした白々しい仕草に呆れ返った葵は、返事をせずに一瞥をくれて歩き出した。
「あ〜ん。いぢわるぅ〜」
 葵は遠退く薄の泣き言を聞き流しながら、台所へと向かった。
「ありゃ。アカはん、出てはったんや」
 台所では、褐色の肌をした大男が葵を待っていた。銅(アカガネ)という名の式(式神)だ。
「おう。我も運ぶようにと仰せ付かったのだ。共に行こうぞ」
 爽やかな笑顔を湛えた銅は、巨大な徳利を、ずい、と差し出した。
 一升源蔵徳利という、その名の通り一升分の液体を入れて持ち運べる徳利だ。信楽焼きの狸が持っている酒の瓶が、この源蔵徳利である。
 葵と銅は、それぞれ徳利を抱え、大広間へと向かった。
「よく似合うておるぞ」
 葵は何に対しての褒め言葉なのかを瞬時に察する。
「おおきに」
 返答は、増長するでもなく、謙遜するでもなく。
「世の男どもは、放っておいてはくれまい?」
「いんや、さっぱりや」
「余程見る目が無いのだな」
「見る目が無いんはどっちやろな」
 葵は、空を流れる雲を見上げた。
 大広間に近づくと、香が焚かれていた。
 用意された三つの座を取り囲むように五つの三鼎香炉が置かれ、そのすべてが香の煙を吐き出している。
 その異様な光景に僅かに表情を曇らせる葵の脇を、六つ目の香炉を持った薄が追い抜いた。そして、他の五つと同様に火を灯すと、主人に一礼して立ち去った。
 葵と一緒に歩いてきた銅は、運んできた徳利を縁側に残し、すでにその姿を消している。
 そのおかげで、葵は縁側との間を往復することになった。
「おいでなさったようだ」
 徳利を運び終えた葵が、自分の座に着こうとしたその刹那であった。
「もっと早くに報せてくれれば、黒沈香を用意させたものを」
 無人の庭に投げられた声に、部屋の外、濡れ縁の向こうから、重量感のある低い声が返る。
「愚道にそのような歓待は無用なれば」
 敷き詰められた玉砂利の上に、僧衣を纏う大きな人の姿があった。
 昼間であるというのに不自然に暗く、よく見ようと目を凝らせば、向こう側がうっすらと透けて見える。意識せずに視界に捉えればはっきりと暗く、意識して見ようと試みれば曖昧に薄くなる。見る者を嘲笑っているかのようであった。
「古い友が訪ねてくるとなれば、力を入れて歓迎したくなるのが人の心」
 僧衣の人影は、自分を招き入れんとする甚平の男を見た。
「む? 先約でもありましたか」
 葵の姿を捉えた僧衣の男は、緊張した声を発した。警戒しているのではなく、無礼を働いてしまったのではないか、と恐縮してのものだ。
「あぁ、一先ず気にしてくれるな。酒を用意してある、詳しい話は肴にするとしよう」
 そう言って、目の前に置いてある大きな瑠璃の盃を持ち上げる。
「しからばその前に」
 僧衣の男は姿勢を正す。
「堅苦しい挨拶は不要だ、上がれよ」
「いえ、主より賜りし用務を済ませたく候れば」
「ん? 僧正坊殿が?」
 一連の出来事を眺めていた葵は、面倒なことになりそうやな、と表情には出さずに苦笑した。