不在の庭
6
ぼんやりとした、夢を見た。
夢の中で俺は叔父に野暮用だと言われた後、手を振って彼を見送っていた。手には先程も見た朝顔の花が咲いている。早くしないとしぼんでしまうから、そればかりを呟いて、彼は俺から遠ざかる。引きずったような足音を響かせて、叔父は下駄を鳴らした。
彼は山をどんどん上っていく。体が強い方ではないのに、しっかりとした足取りで上って行くのである。田んぼの真ん中を右手に折れて、棚田になっている場所を横切る。あちらを上に上がっても、小さな社があるだけで他には何もない。
どこへ行くのか、野暮用とは何か気になって仕方がなかった。あんなところでの野暮用なんて見当もつかない。もしかしたら、小さな社の手入れをしているのかもしれない。まめな叔父だ、その線ならありうると考え、しかし、朝顔だけをもっていくことに引っ掛かりを覚えた。
思ったら行動に移るのは早かった。
俺は、迷わず叔父を追いかけていた。
声を掛けず、引きずったような下駄の音だけを頼りに彼を追った。手のひらの朝顔は、徐々に萎れていくのが分かる。家にいればあの朝顔はずっと元気なままで、彼の野菜と同様に一番いい状態で育っているはずなのだ。
けれども家を出てしまった朝顔は、鮮度を落としていく。緩やかに朽ちゆく夏の日のように、手のひらの中の朝顔も萎れていくのである。
止めなければ、と思った。
叔父は、俺の予想を裏切り、古びた社の前で足を止めた。そんな場所ですることに全く見当がつかず、俺は怪訝に思って青い稲の間から彼の動向をじっと見つめていた。
やがて、瞬きをした後、開いた目に彼の姿は映らなかった。代わりに叔父の履いていた下駄だけがそこに残されていた。
「――――これ」
社からは小さな声が聞こえる。俺は社に近付くべく、身をかがめた。
「やっぱり――――戻らなきゃ。『あちら』に」
「貴方は未練があるのでは?」
「そうだね…………真夏(まなつ)のことは」
「矢張り」
「でも、それがきまりだから」
叔父はときどき庭に訪れる黒猫と話をしていた。いくら夢でも異様な光景だと目を見張っていたら、みるみるうちに猫が蛇の形へと変貌していく。蛇はそのまましばらく、身体を叔父に巻き付けていたかと思うと、今度は人の形になった。彼の髪は艶やかな漆黒だ。
それきり、目が離せなくなった。
「猫って――もとが蛇なら蛇でいればいいじゃないか。本当に君は趣味が悪い」
「でも、猫ならば貴方の甥っこも怪しまないのでは?」
「怪しむも何も。君のことなんか眼中にないよ」
蛇は叔父の腰を抱くと、長い舌で彼の唇を舐め上げた。
彼の隣にいるべき者が自分ではないことに愕然とし、だがそれでも俺は叔父を止めることができなかった。
蛇が叔父へ触れると、かすかに水の気配が残る。叔父は得体のしれない液体に濡れたまま、されるがままになっていた。
蛇は叔父の手を取ると、朝顔をうっとりと眺めた。これが一番おいしいのだと、目を細めて呟く。叔父は、自分の作った野菜の方がよほどおいしいと、唇をとがらせた。
朝顔なんて食べている蛇の気がしれない。
叔父が作る野菜は、口下手な彼が自負するくらい、おいしいのだ。
「ナツなら、喜んで食べてくれるのに」
「でも、貴方が望んでいることはしてくれないでしょう」
「私は……そんな関係にはなれないよ。彼に、手を出すことなんて」
叔父の言葉に、俺は思わず手に力を込めてしまった。
小さな社だ。そんなことをしたら直ぐ相手にばれてしまうに決まっている。しかし、頭が回らなかった。叔父のことで、頭がいっぱいだった。
「ナツ……」
「何だよ、それ……俺が、どれだけ」
「ナツ、なんでここに」
「俺がどれだけあんたのことが好きだったか――――ッ!」
叔父は目を見開いたまま、もっていた朝顔を取り落とした。蛇はそれを待っていたかのように微笑むと、長い指で花びらをつまみあげる。
そうして、次の瞬間、彼の姿はどこにもなかった。代わりにたくさんの水が、叔父の周りと俺の周りを取り囲んでいただけだ。
叔父は溜息のような呼気をもらすと、真っ直ぐに俺を見つめた。手のひらにはもう何も残っていない。水に濡れた身体と、素足だけが彼の存在をそこにとどめていた。
「ナツ、それはいけないよ」
諭すような口調。
そんなものは、望んではいない。
「できないんだ、ごめんね」
「何でだよ、俺は、――だって、あんただって!」
「好き、だよ。でも、私は――――……」
それきり、彼は黙り込んでしまった。俺は衝動的に叔父の身体を壁へ押しつける。唇を合わせたら、水の味しかしなかった。
あの陽のあたる庭に立ち込める、土や野菜の匂いはどこにもない。
そこで、これが夢だと言うことにもう一度気が付いた。瞬きをすると、叔父の姿は既になく、ただの廃屋が広がっている。水浸しの床だけが、夢の残り香を伝えていた。