不在の庭
5
叔父は、その日、突然ふらりと外へ出掛けた。めったに外出することのない叔父だ、どうしたのと問えば、ただの野暮用だと答える。手には朝顔の花、これも庭に植えてあるものの一つである。
「朝顔だから、朝じゃないといけないんだよ。花が閉じる前にね」
「そんなん持って、どこ行くの」
「近所だよ。直ぐ戻るから」
下駄を鳴らしながら痩せた背中を見せたのが、半刻前だ。いつもなら、直ぐに舞い戻ってくるのだが、今日に限って帰りが遅い。
心配になって縁側へ出てみると、そこで一つの足音を聞いた。きしきしと鳴り響くそれは、この家特有のものだ。だが、叔父のものとは違う。
足を引きずったように歩く癖のある叔父は、足音をさせる時、必ず床を擦る音も一緒に響かせる。けれども、今俺が聞いている音は、独特の響きは全くなく、俺と同じような若者特有の、はっきりとした短い音しかしないのである。
引っ込み思案の叔父である。この家に来客があるはずもない。
俺は、背筋が粟立つのを感じながら、音のする方角を見遣った。いつも叔父が寝転がっている座敷の端に、以前見たような水滴がほとりと落ちている。
それ以外、この家に明確な変化を見届けることができなかった。けれども、音だけは相変わらずどこかから響いて来ていた。
「猫?」
それだったらいいのにという願望のもと、呟いてみたが詳細が分からず、いよいよ恐ろしくなってくる。
俺は畳にしゃがみ込んで、ばらまかれている液体を指ですくってみた。すると、あの時のように直ぐに跡形もなく消え去ってしまったのである。
「うそ……」
呟いてみるが、液体が落ちていた形跡はもうすでになく、ささくれ立った畳の端があらわになっているだけだ。指には藺草の匂いに混じって、不思議な香りが留まっていた。鼻を近付ければ、線香のような匂いがする。
「なんだ……?」
「白檀かな。いいにおいだよね」
「うわ、びっくりした」
呟いた俺の背後を取っていたのは、叔父だった。叔父が帰ってきているのならば、音がするはずである。俺は気付かなかった。
けれども、叔父の様子に変わった所はなく、いつもののんびりとした空気だけをまとっていた。持っていたはずの朝顔は手のひらになく、代わりに饅頭を携えている。二つ、小さくて白いものだ。
「ただいま」
「お帰り……」
俺は恐る恐る尋ねた。
「誰かお客さん連れてきたの?」
「いや、一人だよ」
「さっき、違う足音がしたから」
「そう? いつもの猫じゃない? ほら」
薄っすらと笑みを浮かべて、庭を指差した。彼の指示した方角には、艶やかな毛並みの黒猫が尻尾を立てて歩いていた。悠々としている様は、どこか叔父に似ているが、叔父を鼻で笑っている風でもある。
俺が首を傾げながらそれでも、成程と俯いた。どうにも納得がいかないが、確かにそれ以外考えられない。
叔父は満足そうに頷いて、こちらに饅頭を投げて寄越した。俺はうっかりそれを取り落とし、畳の上に二つの甘味が転がった。
良い歳であるのに、叔父は甘いものを好んで食べる。それは昔からのことで、幼い俺は彼に和菓子を御馳走して貰うことをささやかな楽しみとしていた。去年も叔父と一緒に甘味を頬張った記憶がある。
「あげるよ」
「後で食べるだろ」
「ナツに両方あげる」
「調子悪いのか」
「ここのところずっとね。甘いもの食べると、舌が痛くて」
突き出して見せた薄い舌の隅に口内炎ができている。かなりひどいものらしく、白く濁っていた。これでは好きなものも満足に食べられまい。食がすすまなかったのもこれが原因かもしれない。
「ナツ、横になって良い?」
「いいよ。庭に水はまいておいた。だるいの?」
叔父は、俺の問いに一切答えなかった。
「野菜はナツに託そうかな。これから」
「自分で世話しろよ」
「もう、おっさんだからねぇ」
ごろりと横になった叔父は、やはり浴衣の裾を気にすることなく、目を閉じた。脚も浴衣も開きっぱなしだ。俺の母親が見たら、迷わず叱責するところだろう。俺はどうにかしてしまいたくなるのを我慢するばかりだ。
この叔父に響くわけもないということを悟りつつ。彼の中に落とされた波紋は、しばらくさざ波のように浮き立つ。けれども、やがては凪いでしまうことを、皆、知っている。
「久しぶりに外へ出ることが、こんなに疲れるとは思っていなかった」
「体力なさすぎなんだよ」
「なくても過ごせたからね」
「確かに」
転がった饅頭を拾いながら、俺は未だ腑に落ちないでいた。叔父の真意が分からない。
ぼんやりとした表情はそのままに、彼は畳へ四肢を伸ばして、目を閉じた。
「ナツ、この家、ナツにあげるよ」
「ちょっと、突然何言ってんの。まだ俺高校生なんだけど。暑さで頭やられた?」
「いいや、そうじゃなくて…………。」
叔父の声は次第に掠れていく。もともとはっきりと話す方ではないので、こちらが耳を傾けなければ、蝉の鳴き声で、呟きがかき消されてしまうほどだった。
細い声で紡ぐ叔父の言葉は、どこか他人事のようで、その分俺も、彼の話を遠い国の物語であるかのように聞くことしかできなかった。
「じゃあ、そんなこと言うなよ」
「うん、でも、私はナツにあげたいんだ。この家の全部」
「いいけど。俺がおっさんになったら考えてやるよ」
「……それでも、いいな。いつか、ね」
叔父は、緩やかに呼吸をすると、深い眠りに入っていく。非常に安らかな吐息であり、彼の様子は、今が一番落ち着いているのだという錯覚を抱かせた。
それが、叔父を見た最後になった。