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不在の庭

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 7

 いつの間にか眠っていたらしい。もう既に日は傾き、辺りは朱色に染まりかけていた。
ぼんやりと薄目を開いたのは、ポケットの携帯電話が甲高い音を奏でていたからだ。着信を見やれば、母親の名前。いつもならばまだ仕事をしている時刻である。滅多に発信することのない人なのに、一体どうしたというのだろう。
首をゆっくり傾けて辺りを見回した世界に、叔父の姿はなかった。
 居間には読みかけの文庫本がそのままにされ、水道場には新しく採ったのだろうか、トマトとキュウリが水に浸かっている。
今日の物は丁度いい具合で取れたようで、トマトのつやも、キュウリの棘も申し分なかった。きっと叔父は、突然思い立って庭の奥に入り込み、草いじりでもしているのだ。
 俺は寝転がったまま、いつも叔父がそうしているように四肢を投げ出して受話器ボタンを押した。
「何……母さん、寝てた」
「真夏(まなつ)、今、どこ?」
 切羽詰まった声に、俺は急激に眠りを覚まされた。仕事人間の癖に、叔父と同じでおっとりしている母は、滅多に慌てることがない。けれども、今日は硬い声を受話器から響かせていた。確実に彼女は焦っていた。
 俺は、完全に覚醒しきっていない頭に頭痛を覚えながら、低い声をしぼり出す。じわじわと鳴く蝉の音が鼓膜を刺激して、痛いほどだ。母の声が雑音にまぎれて聞こえづらくなっている。
「叔父さんの家」
「嘘……まさか」
「どうしたの」
「警察から、電話があって、あの子、半月前から行方が分からないって」
 俺は一瞬、母親が何を言っているのか分からなかった。きっと、蝉の声に阻まれて、自分の耳がおかしな音を捉えたのだ。
 けれども、俺が見まわした座敷には叔父の姿はない。立ち上がった俺の足元を飾っていたのは、無数の水滴ばかりである。
 ちょうど叔父が転がっていたところを取り囲むようにして、水が散らばっていた。それも、俺が見たこともないような夥しい数だ。水滴は一つ一つ重なることなく、個々が存在を主張している。
斑になった畳を、俺は直視できなかった。足で触れれば、さらりと消える。同時に、庭の隅で小さく鈴の音が響いた。慌てて振り返るが、そこには誰も何もなかった。
先程まで自分の隣で寝転がっていた人物が、いなくなっているなんてことが、あるだろうか。
「そんなこと、あるわけないよ」
 それから矢継ぎ早にまくしたてる母親の話を、真っ白になった頭で聞いていた。しかし、どれも信じることができなくて、言葉は右から左へと流れるばかりだった。
 叔父の失踪は、今朝方近所の人が届けを出したということだった。昼間に母親の所へ連絡が入ったということだけ、理解ができた。どういった経緯で、どういった様子から、ということは、母親が伝えて来た気がするが、覚えていない。
「だって、母さん、」
庭の野菜は相変わらず元気に育っているし、手入れもしっかりされている。雑草など、ほとんどないに等しい。
 何より叔父は、先ほどまで俺の傍にいた。
「……どうして」
 直ぐにそちらに向かうという言伝をされ、通話を切られた俺は、力なく携帯を取り落とした。呟きだけが畳の上を滑っていく。
 相変わらず家の周りでは蝉がひっきりなしに鳴いていて、この家にはクーラーも扇風機も存在していなくて、ただ、彼の住んでいた痕跡だけが残されていた。
 だが、それだけだった。
 程なくして、警察が叔父の家にやってきた。事情聴取をするらしく、直前まで傍にいたとされる俺は、いろいろなことを根掘り葉掘り尋ねられた。
 叔父の行きそうな場所、叔父の失踪した理由についての心当たり、最近の彼の様子。
 全てにおいて明確に答えられない俺は、よく分りませんという答えを並べ立てた。
 唯一はっきり言えたのは、彼がこの家を自分に残してくれると告げたことだけだ。こうなることを示唆する言葉だったのか、それとも深い意味はなくつむがれた言葉だったのか、叔父がいない今となってはよく分からない。
 警察が来ている間、ずっと俺は台所の野菜ばかりを気にしていた。紅(あか)く熟れたトマトの表面を、濃い色をした水が滑っていく。文句ないほど美味しそうな野菜は、静謐な絵画のように、そこにあった。
 それを見ながら、もう叔父がどこへも戻ってこないのだということを悟った。






 数年後、俺は叔父の言葉通り、この家に住むことにした。交通の便も、買い物も不便なところである。しかし、のんびり過ごすにはうってつけの場所だった。
 相変わらず、毎年庭では、野菜が立派な実をつける。俺はその一つ一つを丁寧に洗いながら、決して戻ることのない主を待ち続けるのだ。




(了)
作品名:不在の庭 作家名:柳ゆずる