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不在の庭

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 4

 蝉が、ひっきりなしに鳴く午後だった。夏休みはもうすでに半ばを迎え、もう直ぐ一般的な盆休みに差し掛かろうとしていた。ただ、この地区は新盆らしいから、あまり関係がないようだ。慌ただしく盆の準備をしている家は見受けられず、代わりにのんびりとした風景がたたずんでいた。
 叔父は今日も縁側に座り込んでいた。しかし今日はぼんやりとしているわけではなく、やすりで足の爪をといでいた。傍らの爪切りを取り出し、といでいた方と反対側の足に手を掛ける。
驚くほど細い足だ。筋肉があまり付いておらず、骨と皮だけで構成されているような、まるで老人のような足首だった。
 ぱちん、ぱちん。
 叔父は憮然とした表情で、自分自身の一部を切り落としていく。だが、その表情は冴えないばかりで、俺は彼の隣に座りながら、横顔を見ていた。
 何日か顔をあたっていないのか、顎には不精ひげが生えてきていた。去年よりも頬が少しこけたように感じるのは気のせいだろうか。浴衣から覗く鎖骨も、あばらも、存在を主張しすぎていると思う。
「もったいないな」
 彼は、切られた爪をつまんで、呟いていた。何がもったいないのかさっぱり分からなかったから、俺は彼が大事そうにつまんでいる彼の残骸を横目で見た。鋭い三日月形をしている、半透明のそれ。叔父の爪の形は非常に美しく、また、男のものとは思えないほど薄かった。
「ナツは、捨てられないものはあるの」
 突然の質問は、いつものことだ。だから俺は、常日頃と同じように答えた。
「あるよ」
「彼女?」
「引く手数多(あまた)だから」
「まだいないの。ふーん」
「はいはい、ほんの冗談ですが。」
「焦ることないよ。ナツはさ。他には」
 珍しく叔父は冴えていた。普段だったら、こういった会話は流水の様に流れ去ってしまうものだったが、彼は饒舌に話し続けた。
 人差し指で爪をいじりながら、彼は俯いて三日月の先を見つめていた。現実のことに執着のない彼が、俺の捨てられないものの話に興味をもつことが、不思議で仕方がなかった。
「捨てられないもの……陸上のシューズとか。携帯? あと、小さい頃抜けた歯」
「なんで」
「ほら、覚えてない? 小学校の時かな。ここでさ、取れたの。前歯二本同時に」
「あー、歯なしのナツ」
「それそれ。何か、取ってあるんだよね。家の宝箱にしまってある」
「ふうん」
「良く考えたら、今のシチュエーションと一緒だな。っていうか、爪捨てなよ」
「でも、歯は捨てられないんだよね」
「何でだろうね。俺の歴史?」
「あー、歴史か」
 頷く叔父は、やはり明後日の方向を向いていた。庭の野菜、彼が大切にしているものの方である。
 だが、はたして本当にそうだろうかと、俺はその時思った。世の中への執着を持たない彼が、本当に畑に執着しているのか。もしかしたら、俺の予想は間違っていたのかもしれない。
捨てられないものの中に、一体何があるのだろうか。
思いあたったら止まらなくて、俺は、叔父の手のひらから爪を奪った。
はっとした表情で彼は俺を見遣る。その、一瞬の隙をつくのだ。
「そっちは。捨てられないものあるの」
 叔父は、しばらく考えてから一つ頷いた。
「野菜畑?」
「いいや。違う」
「じゃあ、何」
 そもそも、俺以外に対しては、口数の少ない叔父が、大切なことを教えてくれるわけがない。其れに気付かない俺はかなり馬鹿なのだし、教えてくれない叔父はずるいのだと思う。
「ナツ」
 そこで、叔父は俺の名を呼んだ。
「は?」
「捨てられないもの、特にないけど、でもね」
 一瞬どきりとしてしまった。
まさか、この場面で名前を呼ばれるとは思いもよらなかった。彼はただ呼びかけただけだろうに、俺はどういうわけだか、彼の捨てられないものが自分なのだと錯覚してしまったのだ。
「私が欲しいものはないのだけれどもね、――――捨てられるのは、少し怖いから、だから、ナツ」
「…………え、」
「ナツは……、ナツだけは、覚えていてね。私のこと」
 鼓膜に響く蝉の鳴き声が止まった。その時どうしてか、俺は返答をすることができなくて、彼の放り投げた爪を、目で追っていた。軌跡はぶれることなく、鮮やかな軌跡をつくって庭のどこかへ消えた。

作品名:不在の庭 作家名:柳ゆずる