不在の庭
3
昼間の叔父は、読書をしているか土いじりをしているか、寝ているかのどれかだ。
今日はその三つ目で、浴衣を羽織った格好で、座敷に大の字になっていた。
「……お帰り」
「ただいま……何て恰好してんだ」
俺は近くの公民館に使いに出ていたので、昼寝をしていた叔父の姿をよく知らない。座敷には燃え尽きかけている蚊取り線香が置かれている。畳の上に布団も敷かず、叔父は自然の涼風に身を任せて眠っていたようだった。
浴衣はすでに寝乱れていて、裾も袷もひどい有様だった。辛うじて帯が腰に引っ掛かっているくらいで、後は肌が露出している。
「おっさんだな、この恰好」
誤魔化すように言えば、
「まあ、おっさんだから」
何の抵抗もなく、肯定の言葉が戻ってきた。
「恥じらいがない」
「生娘じゃあるまいに」
「生娘どころか、嫁もいないくせに」
「私は一途だから」
「じゃあ、片想いの人がいるってこと? 信じられねぇ」
「分かるよ、そのうちね」
彼はぼんやりとした眼をこちらに向けて、うっそりと微笑んだ。その表情の煽情的なこと。誘われているような錯覚に陥って困る。
「ナツはこれからいい男になるよ」
「はあ?」
「結婚して子どもが二人、きっとそう。」
「妙な自信はどこから」
「なんとなくだよ」
投げ出した四肢を大儀そうに持ち上げて、彼は俺を手招きした。形の良い爪が、弧を描く。しなやかさは猫のそれに似ていた。
「一つお願いがあるんだけど」
「どうしたの、突然」
「畳、雑巾で拭いてくれないか」
彼が突如そう言うので周りを見遣れば、驚くほど密度の濃い水が、叔父の周りに点々と散っていた。古い家だから雨漏りでもしたのだろうか。
だが、今日は、気持ちのいいほどの快晴だった。
「何これ」
「起きたら濡れてたんだ。猫か犬でも来たのかな」
「いや、それは判らない、けど……」
まるで、彼を取り囲むように配置された水滴は、無色透明ではなかった。薄っすらと色が付いている。そのどれもが生きているかのような色彩で、俺は思わず身震いをした。
「ごめんね、ナツ。だるくて動けなくてさ」
「いいよ、シミになる前に拭くよ」
「頼むね」
彼が俺に頼みごとをするのなど日常茶飯事だから、そのことに関しては全く気にならない。気になるとしたら、それは、不自然なまでに散らばっている液体の存在ばかりである。
俺は台所から雑巾を持ち出して、彼の周りを拭いた。早くしないと畳が変色してしまうという懸念だけが俺の中にあった。
だが、水滴は驚くほどよく取れた。
雑巾を一撫でするだけで、水滴は跡形もなく消え去るのである。もともと、何もなかったかのように。
「取れた? ありがとう」
「う、うん……」
目を細めた彼は、少しだけ眉をひそめて俺を見上げていた。
きっと、彼は、水滴が何であるかを知っているのだ。
しかし、ばらまかれていた水滴の意味を、俺は最後まで彼に尋ねることができなかった。もしかしたら、彼はそうさせまいとする圧力を、俺に与えていたのかもしれない。
浴衣を直すわけでもなく、彼は再び眠りについていった。
俺は庭の野菜を眺めながら、ぼんやりと携帯電話をいじっていた。
携帯に映っていたメールの着信は六件。友人からだ。どれも近いうちに行われる、遊びの誘いだった。俺はその全てを丁重に断って、携帯電話を閉じた。
ディスプレイの掲示板が、また新たな着信を伝えている。受信ボックスを開くと、母親からのメールだった。叔父のことを案じているらしい。
せめて何かを伝えようと、俺は目の前にある菜園を写真に撮って母親に送った。今日は黒猫の姿が見受けられない。
夏の空気や、菜園の匂いまで届けられないことが非常に口惜しかった。