不在の庭
2
俺が庭に水巻きをやっている間、叔父は縁側で相変わらず柱に身を預け、ぼんやりと空を見上げていた。彼の素足の近くには、食べかけのスイカがある。早くしないと蟻が上って来るのに、彼の食はあまりすすまない。
最近庭によく表れるという黒猫が、叔父の動向を見ていたからだろうか、遠くで欠伸をした。黒猫は、叔父に付けられた鈴を鳴らしながら、退屈そうに首を振る。猫のくせに水を避けたりはしなかった。
俺はもう既に自分の分を食べてしまって、盆に残っているのは彼の半分だけだ。太陽の光を受けて、そろそろ温まっているだろう。冷蔵庫に入れることをすすめたが、叔父はこれでいいのだと、またぼんやり空を見上げていた。
「どうしたの」
「いや……帰らなきゃ、と思って」
「実家? お盆になったら一緒に行くでしょ。いつもさ」
「ん、そうじゃなくてね……」
叔父は昔から地に足のついていない人のようだったから、俺はおかしな言動があっても聞き逃していた。一番の理解者であった母は、こういう人だからあまり深く考えないようにと、幼いころから俺に伝えていた。俺は普段から彼が不思議な人なのだという認識で接していた。
足元のスイカは、崩れていくばかりで、甘い匂いを放っている。
「もう一切れ切らなきゃ」
「え、もう食べないけど」
「おそなえもの」
「仏壇なんてあったっけ」
「ないよ。でも切らなきゃいけないんだ」
「ふうん。そう」
「ナツ、野菜の水やりよろしく。特にキュウリはたくさんあげてね。他の野菜よりもたくさん水をやらないと、おいしく育たないから」
「分かってるよ。何度も言わなくても。毎年のことだろ」
「さすが。ごめんね、任せたよ」
ふらふらとした足取りで台所へ消えていく叔父の背中に手を振り、俺は引き続き庭に水をまいていた。
地面に触れると熱気を放つ水分、今日も蒸し暑くなるのだろう。今のうちに水をやらないと。昼間ではいけない。温水で野菜が枯れてしまうから。
この庭は叔父のすべてだ。
趣味も特技もない叔父が、唯一、長く続けられてきたもの。骨ばった手のひらが野菜に触れるたび、俺の口元はゆるむのである。
彼は多分、この世に執着をもっていない。それは、やけに持物が少ないことや、外界と隔絶したところに家があることや、叔父の不可思議な言動から察せられる。
死にたい、という感情とは少し違う。
おそらく、いつ死んでも困らないのだ、彼は。
だから、この菜園が、彼とこの世をつなぐ唯一の未練なのだと思う。この人が生きていくために、庭は枯らしてはいけないのだ。
それは、俺にとってとても恐ろしいことだった。
「でも」
今年の野菜はやけに育ちすぎていて、気味が悪い。いつもならば完璧に、彼が美味しいと思う最高の出来であるし、俺も納得してうまいと言えるものがそろっているのに。
いよいよ、彼はこの世の未練も断ち切ろうとしているのではないかという不安が過ぎった。俺は叔父をふり返ったけれども、もう台所ですいかを切っているらしく、ひょろりとした背中は見えなかった。
じわじわとした熱気は、俺を容赦なく攻撃してくる。額から流れてくる汗を手のひらで拭ったら、顔が土で汚れた。それをさらにシャツで拭ったものだから、今度はシャツの袖が真っ黒になる。
ただ、叔父はそういったことには無頓着なので、きっと、明日の朝、このシャツを事もなげに洗濯機に放り込むのだろう。
つと視線を上げれば、山と反対方向に大きな入道雲が出ていた。
不意にぶれた視界に映ったのは、幼い頃の自分と叔父が遊ぶ姿。彼は昔から、どこか世俗から離れたところを彷徨っていたのだと思う。
程なくして叔父は手ぶらで戻ってきた。スイカのことを尋ねると、食べてしまったとの返答。
彼が縁側で赤い蜜をすすらなかったのは、暑さのせいだと思いこみ、俺は彼にホースを渡した。俺では彼の未練になりえないのではないかという、一瞬の疑惑。俺の未練は全て彼であるのに、彼にとっての俺は、ただの甥っこでしかないのだ。
背中越しに見た風景には、ホースから吐き出される水と一緒に、小さな虹がこぼれていた。黒猫が、虹に手を伸ばすが、決して捕まえることはできない。
「暑い」
叔父は呟いた。
彼の指の先には、黒猫がたたずんでいる。
「本当に、暑いな」
彼は濡れている菜園に、霧のような雨を降らせながら、汗を拭った。俺と比べれば、すずめの涙ほどしかない汗だった。