ヨスガラ
リュカが周囲に首を廻らせても、人影はなかった。既に上へと上がってしまったのだろうか。長い間立っていることすらままならない身体で。リュカは二階への階段を駆け上がった。何か所かで足下からいやな音がしたが、構ってはいられない。この塔は四階建てのはずだった。以前来たときには二階でリュカが持てる本がいっぱいになってしまったから、三階以降がどうなっているかはリュカにもわからない。
「アルバート!」
殆ど泣きそうになりながら、リュカが叫ぶ。あの場ですぐに追いかけていたら間に合っていたかもしれないのに。フローリアを危険に遭わせてはならないという、叩きこまれた執事の卵としての概念がリュカを足止めしたのだ。
「返事をしてくれ、アルバート!」
アルバートは、フローリアとは違う。魔法を使いこなせないとはそういうことだ。足場が崩れようものなら、下に叩きつけられるしかない。死んでしまう。――死んでしまう?そう思うと、ぎゅっと胸の奥を鷲掴みにされるような感覚がした。
昔から、アルバートは幾度となく生死の境をさまよってきた。熱を出そうものなら死にかけたし、流行り病をもらったこともある。いずれも国指折りの治癒師を幾人も連れてきて、ようやっと永らえた命なのだ。
二十歳までは生きられないという医者の見立てだと、そんな噂があった。それが真実であるのかどうかリュカはしらない。ただしアルバートは知っているような、そんな素振りを見せることが多々あった。リュカが一番かれの傍にいたのに、かれはどうやって知ったのだろうとリュカが首をかしげるような色々な知識をたくさん持っていたから。
「三階にいる」
二階に積み重なった本の山と格闘をしていたリュカに、そんな声が聞こえたのは暫しの沈黙があったあとのことだった。続けて、ひどく咳きこむ声がする。リュカはそれを聞いて、本を蹴っ飛ばして三階への階段のほうへと駆け寄った。二つある階段のうち一つは腐り落ちていたが、もう一つはなんとか無事のようだ。同じく真新しい足跡が何個も付いている。
「…どうして来たんだ。フローリアは?」
息を切らせて長い階段を駆け上った少年が見たのは、青い空を切り取る小さな窓の下、古びた安楽椅子に腰かけているアルバートの姿である。息を呑み、リュカはたたらを踏んだ。かれの金の髪が陽にすけて綺羅綺羅と光る。翡翠のうつくしい瞳が、咎めるようにリュカを見る。
リュカがたたらを踏んだ理由は、それではない。この空間に足を踏み入れた瞬間に感じた、凄まじいまでの重苦しい雰囲気。
「…アルバート、それ…」
その原因は、すぐにわかった。恐らく椅子に腰かけたかれが読んでいるソレであろう。『ソレ』は形状こそ本の形をしていたが、本と呼ぶには、あまりにリュカの知るものとかけ離れている。ソレを縛りつけていたらしい鎖が、千切れてアルバートの膝や腐った床板に散らばっていた。大きな黒の装丁は、明らかにその本が望ましいものではないと告げている。
「さっきの軍記の続きを探してたんだろ?手伝うよ、探して、帰ろう」
一刻も早くその美しい瞳をその本から逸らしたくて、リュカはかれの傍まで歩み寄るとそう声をかけた。そしてその本に手を伸ばし、奪い取ろうとする。何故かはわからないが、どうしようもなくかれに、その本を読ませたくなかったのだ。
「お前は、これが何の本か知っているのか?」
リュカの手を止めるには十分なほど冷たい声で、アルバートがそういう。思わず弾かれるようにその顔を見て、リュカは、かれの妹と良く似た綺麗な顔が哀しげに歪んでいることをしった。何もかもに恵まれて笑顔を絶やさぬ妹が見せないような負の表情を、まるでかれが受け持っているような、顔だ。
「…し、知らない」
でも、と言いかけたリュカを遮って、アルバートがその口元をゆるく綻ばせた。そしてゆっくりとその本を閉じる。その瞬間、呪縛でも解けたように空間の重苦しさが消えうせた。リュカはほっと息をつき、かれの顔を覗き見る。その表情にはすでに笑みはなかったが、それでも目だって体調が悪い様子はなさそうだ。
「この塔に閉じ込められていた人の日記だよ」
そしてこともなげに、アルバートは言った。ぞわりと背筋を這う恐怖にリュカが顔をこわばらせるのも構わずに、かれは静かな声音で続ける。
「彼女は王の姉だった。ただ、生まれつき身体が弱くてね、王位にはつけないと判断されたらしい。王は彼女をこの塔に軟禁し、城に眠っていた本を与えたようだ。ただ、運の悪いことに、本には沢山の魔術書が混ざっていた。この国に伝わる、禁じられた魔法書も」
黒の表紙を、愛おしそうにアルバートが撫でる。リュカはそれを取り上げようと、勇気を振り絞って腕を伸ばした。しかし。
「彼女は王族の人間だけあって、魔力に恵まれていたみたいだ。禁忌の魔法を習得し、そして彼女は王を殺そうとしたみたいだね」
「っ、」
指先がその表紙に触れたその刹那、身を灼く痛みがリュカを襲った。思わず手を離して膝をついたリュカを、気の毒そうにアルバートが見る。
「触らない方がいい。外敵を防ぐ呪文が掛けられているみたいだから」
アルバートが手の届かない遠くへいってしまうのではないかと、リュカは耐えがたい恐怖に襲われていた。かれの語る言葉などろくに耳に入っていない。けれどわかるのは、かれが、リュカの知る、リュカが大好きなかれでないことだけである。
「それから先の事は、しらない。彼女がどうなったかはしらないけれど、この塔の中で殺されたのは確かだろうね」
「アルバート!」
「アルバート様、じゃないのか?リュカ」
下から大人たちの怒号が聞こえたとほぼ同時、アルバートは本を傍にあった机の上に置いて立ち上がっていた。顔を上げ、リュカはその表情を見上げる。かれは笑うでも、怒るでも、哀しんでいる素振りさえなく、ただただ無表情だった。かれは表情を作ることをやめてしまったようだった。
「このお姫様はいつからこの塔に閉じ込められていたと思う?」
大人たちの足音がする。来るな、とリュカは叫びたかった。アルバートがどこかへいってしまうような、そんな気がしてならなかった。引きとめるためのすべを持たぬことに、リュカは絶望をする。いつもそうだった。そういえば気付けば、リュカは、与えられた道を拒むということを知らなかったのだ。
敬語はやめろってば、とそうアルバートに言われた時も、「父さんの言いつけですから」と言った。その父親に「フローリア様にお仕えしろ」と言われた時も、それを諾々と受ける以外の道を知らなかった。だからリュカは今、かれをただ茫然と見上げる、という身体が示した道に拒むだけのこころを持たない。
「十五歳の誕生日、その日からだ」
かれがそう言うのと同時に、エドワードや近衛の騎士たちが駆けあがってくるのが分かった。かれらは部屋の異様な雰囲気に言葉を切り、立ち止る。アルバートは本棚から一冊の本を取り出して、開いた。すでに身体は限界のようで、崩れるように安楽椅子に座りこむ。
「アルバート!」