双子座の流星
「そうね、ここに来てから、色々と学んだから。あなたの知らないこともたくさん」
少女は不思議なことを言った。
「じゃあ、話してあげようかしら。ファエトンの話を」
「小さいときからファエトンは、母親と二人きりで暮らしていた。だから彼は父親の顔や、どんな父なのかを知らなかったの。そしてある時不思議に思って、母親に訊いた。どうして友達とは違って、自分にだけ父親がいないのか、って」
それは囁くように、物語を紡いでいく口調だった。凛とした声の語りは少年の耳に違和感なく染み込み、その情景を想起させた。
「彼の母親はこう答えた。『あなたのお父さんは、太陽神ヘリオスなのよ。彼は太陽を司る神だから、ここにはいないの』と。
それを聞いて、彼はとても喜んだわ。誇らしさで胸がいっぱいになって、彼は友達に自慢をするの。『僕のお父さんは、太陽の神様なんだ!』。でも当然、証拠もなくそんなことを言ったって、笑いものにされるだけだった。彼は悔しくて、寂しくて、悲しくて、たくさん泣いた。
何度言っても、誰に言っても信じてもらえず、彼は辛い日々を過ごした。それでも父のことを、彼はずっと信じていた。そうして、彼は青年になった。
そしてファエトンは、とうとう父に会いに行こうと決意をして、どうすれば父に会えるかを母に聞いた。父は、陽の昇る東の遙か、太陽の神殿にいるらしい。彼はすぐに準備をして、東へ旅に出た。でもそれは長く険しい旅だったのよ。
本当は半日ほどで着くはずだったのに、一向に神殿は現れず、一日、また一日歩き続けても、着く気配はない。ただ体力が消耗して、疲れ果てて、それでも、父親の顔が見たいという願いだけで、彼は歩いた。そしてどれだけ経ったのかもわからないほど歩いた果てに、遂に黄金に光輝く神殿に到達したの。
神殿の主であるヘリオスは、疲弊しきった彼を自分の息子だと気づいて、とても喜んで歓迎し、抱き寄せて、頭をなでてあげたわ。ファエトンは父の腕の中で泣き叫び、今までの自分の辛さを父に話した。するとヘリオスは、頑張ってここまで来た息子の為に、何か一つ、願いを叶えてあげようと言った。
ファエトンは言ったわ。『それならあなたの乗る、あの太陽の馬車に一日だけ乗せてください。地上にいる人々に、自分の姿を見せてやりたいのです』と。
太陽の馬車の運転は、太陽の運行を司る神であるヘリオスのみに与えられた仕事だった。とても危険なその仕事をしたいと息子が言うのだから、当然、ヘリオスは反対するわ。でもファエトンはどうしてもと言って聞かなかった。仕方なく、彼は息子を馬車に乗せてやり、十分に注意するようにと言ってから、空へと送った。
でも、そうね、察しがつくと思うけど、彼は失敗をする。空から地上の山や川、自分を笑った友人を見下ろす風景を楽しんだのも束の間、やがて、馬が通るべき道を外れていってしまう。彼は体が軽いから、馬たちが当惑して自分の力を調節できなくなったためね。彼は何とかして手綱を操ろうとするけれど、気性がとても荒い馬たちは、暴れ出してしまう。太陽の馬車はどんどん天高く昇っていき、星座を焼き焦がしてしまうの。そしてファエトンはとうとう手綱を離してしまい、天地は大混乱に見舞われた。馬車は狂ったように走り回り、地上の森も山も焼き尽くし、海すら干上がってしまったわ。
そこで、まさに世界が滅びてしまう大災害を食い止めるために、ゼウスという神様が仕方なく、暴れ狂う太陽の馬車に巨大な雷を落としたの。もちろん、ファエトンは乗ったままだわ。馬車は粉砕され、ファエトンは燃える火の玉のように焼かれながら空に投げ出され、地上に落下し、そのまま死んでしまう―――」
最後に余韻を残しながら、彼女は語り終えた。少年はその話に夢中になって聞いていたため、締めのあっけなさに、少しばかり残念な気分になった。
「―――それが、ファエトンの物語よ。だから、きっとこの星は、膨大な時間をかけながらも、偉大な太陽神である父の元に行こうとする姿をモチーフにして、彼の名前が付けられたのね」
相変わらず黒いままの星を下に眺めながら、彼女は微笑んだ。
「ファエトンと地球は、今から83年後の今日、地球に291万kmまで近づくと予測されているわ」
「それって、近いの?」
彼は尋ねた。
「とても近いわ。だって、太陽と地球の距離は1億5000万kmもあるのよ」
「いちおく?」
「1万の1000倍よ」
少年は黙って、身の回りにあるものでその数字の量を想像しようとしたが、無理だった。とにかく、口調からして、途方もない数であるらしい。第一、83年という時間すらにわかには想像できない。
「地球と月の距離は40万kmくらいだから、およそ七倍ね。普段ではさらにその何百倍以上も離れているのに、その時だけ百分の一の距離になるのよ。例としては、そうね、あなた、学校まで歩いて何分くらいかかるのかしら?」
彼は突然訊かれたために少し戸惑ってから、言った。
「えっと、15分くらい」
そのくらいかかると、誰か――おそらく母親――が言っていたのを思い出した。自分で計ってみたわけではない。
「それが歩いて9秒以内で着く距離になるのよ。どう?とても近いでしょう」
「9秒っ?ほとんど目の前じゃないか」彼は驚愕した。
「きっと9秒よりもっと短いわ。5秒くらいかもね。目の前よ」彼女はあっさりと言った。
「そんなに近づいて、衝突しない?」
「しないわ。衝突するほど近くないもの―――それより、どうだったかしら?ファエトンの話は、何か思うところはあった?」
「特にないなあ。でも、とても面白かったよ」
「それは良かったわ」
彼女は明るい微笑みを見せた。
「この黒い星じゃあ、写真を撮るのは難しそうね」
「フラッシュをたけるよ」
「撮ってもきっと美しくないわ、でこぼこだもの。それにこの星は光をほとんど反射しないわ…じゃあこうしましょう、あなた、どこか写真を撮ってみたい星はあるかしら?どこでも行けるわよ!木星でも、お隣のアンドロメダ銀河でも、127億光年離れたクエーサーだって…ああ、恒星はカメラの方がもたないから無理ね。あとブラックホールも無理かも」
彼女は少女の声で、楽しそうに宇宙の隅々を指さしながら提案した。
「きみは自由に宇宙を飛び回れるの?」
彼は訊いた。その問いに、彼女は振り返らずに答える。
「そうよ」
「どうして?」
「どこに行きたい?」
彼の二回目の問いを無視して、彼女が再度質問した。
「…じゃあ、僕は、月に行きたい」
「え、月?あら、そんなのいつでも見れるじゃない」
彼女は振り返って、半ば責めるように言った。
「もっと近くで見たいんだ」
「月より綺麗な星はいっぱいあると思うわ」
「それでも月がいい」
少し残念そうな顔をする彼女を横目で見ながらも、彼は言う。
「…そう、まあいいわ。月でも悪くないし。じゃあ、月に行きましょう」
投げやり口調で言って、少女は彼の手をまた引っ張った。下方にあった黒い岩の塊は一瞬で消えたが、周りの星座は全く動いていない。代わりに、太陽が少しずつ明るくなっている気がした。
「月の写真を撮りたいの?」
おそらく移動中であるその間に、彼女は尋ねた。