コミュニティ・短編家
お題・愛しい
「ヴヴザプレコマン?」
私はとっさに脳内に言葉を並べる。
古い古い記憶を唯一の頼りに。
―VOUS-VOUS-APPELEZ-COMMENT?
―お名前は?
(…よかった。出てきた)
それから声の主の正体にやっと気付き、ムッとなる。
日本人だ。
もちろん日本語ぺらぺらの。
オマケに私の元カレの。
彼は5年前とさほど変わらない姿で立っていた。
相変わらずだらしない空気。
変わったところといえば、服の趣味くらいだ。
どうやらモノトーンが好きになったらしい。
私は睨みつけながら低い声を絞り出す。
「…なに。名前知ってんでしょ」
「相変わらずだなぁナホは。」
声の主は悪びれもせずにやっと笑う。
…彼とは6年前フランス語教室で出会った。
あの頃私は若かった。
だから変なのにひっかかってしまったのだ。
…その変なのは笑いながら続ける。
「でもおばさんになったな」
「当たり前よ!もう子供もいるんだから。」
私はイライラと答える。
想像してほしい。
同じだけ年月がたったというのに、片方は変わらず、片方は年相応に年を積み上げている状況を。
今すぐ隠れたい感じだ。
しかも相手は元カレなのだ。
かなり最悪だ。
「ていうかもういっていい?買い物行かなきゃなんないのよ」
男は笑った。
うん、と言った。
とても無邪気に。
…チクリと刺す違和感。
「…うん。じゃあ」
私は急に、なぜか急に名残惜しくなって言葉を濁らせた。
「うん。あ、ちょっと待って」
男は優しく言葉を付け足す。
「…何?」
私は答える。
「子供、可愛い?」
私は想像する。
生意気盛りの我娘を。
…可愛い?
可愛いさ。結局は。
…そして、軽く言う。
「ええ。」
それを聞くと、彼は満足そうに笑った。
「ジュテーム、だね」
…何を言ってるんだこいつは。
「…ジュテームね。」
私はまた仕方なく言った。
…途端、彼はぱちりと消えた。
チシャネコみたく、笑顔だけ残して。
途端に私は思い出す。
彼と過ごした日々を。
若くて、馬鹿みたいで、でも楽しくて、ただひたすらに愛しかった日々を。
…あぁ、きっと、彼はもうこの世にいないのだ。
世界の何処にもいないのだ。
…若くて間抜けで彼に恋していた私はいないのだ。何処にも。
私は泣いた。
わんわん泣いた。
通行人がいぶかしげに変なおばさんが泣くのを見ている。
それでも気にせず泣いた。
なんだか無償に娘が愛しかった。
作品名:コミュニティ・短編家 作家名:川口暁